アップルビジネス昔話し〜危ないベンチャー企業の見分け方

皆さんは「危ない会社の見分け方」をご存じだろうか? 「危ない」とは、一言でいうならまともな会社でなく、取引をすべきでない企業を意味する。無論投資などは論外だ。今回は私が体験したとっておきの実例を紹介する。



誰でも理屈より、実体験を重ねて会得した"感"がビジネス判断の際に力を発揮することがある。私も長い間のビジネスにおいてそうしたいくつかのノウハウを持っているつもりだが、酒の席などで面白半分に披露するそのひとつに「美人の社長秘書がいるベンチャー企業には気を付けろ!!」という持論がある(笑)。いや、笑い事ではないのだ...。

ここでいうところの「危ない」とは、取引をすべきでない企業を意味する。ましてや投資などは論外である。そうした企業と無理に取引すればトラブルが多発するだけでなく、契約不履行など、多大な損害を被る可能性がある。
まずはその実例をご紹介しよう。タイトルは昔話としているが、この話はそんなに昔のことではなくホンの○年前の実話である。

ある日、アップルコンピュータ社から紹介を受けたという電話が入った(これはどうやら本当らしい)。余談ながら後でアップルに確認したところ一般的な問い合わせとしてその内容から私の会社に相談してみろと話を振ったとのことだった。
電話口でソフトウェア開発の依頼をしたいという話をいただき、私は早速都内の某所にあったその会社を訪ねた。
雑居ビルの一室に事務所を構えていたその会社はインターネットを使ったコンテンツ配信ビジネスを始めたばかりという、文字通りのベンチャー企業のようだった。しかしすでに数社のベンチャーキャピタルから資金を集めており、来年には上場を果たすべく準備を整えているというふれ込みだった。
近々新築のテナントビルに引っ越しもするという説明を、眩しく羨ましく思いながら聞いていたが同時にいつもの癖でその社長を観察し始めていた。彼は私より一回り以上若く、そしてスマートでハンサムな男だった。
依頼事を要約すると現在Windows版が稼働しているが、そのMacintosh版の開発を依頼したいということだった。また嬉しいことに開発依頼という単発の話しだけでなく、自社が不得手なMacintosh全般のコンサルタントなどを含む長期のビジネス契約を結びたいという、私にとっては喉から手がでるような魅力的な話であった。

その後、数回その会社を訪れて見積そして契約書のドラフトについての話を進めるにつれ、長い間身につけてきた私の"感"がブレーキを踏み始めた...。理屈においては確かに美味しい話しであり、不景気のこの時代になんとも嬉しいビジネスなのである。しかしどこかおかしい...。
そう感じる第一の理由は社長の話しっぷりであった。確かに魅力的な人であり一種のカリスマ性を感じさせるし身なりも良い。しかし会話の語尾が不明瞭であるばかりか、一貫した内容でないこと。そして頻繁にこちらの話の腰を折り、話題が頻繁に変わることなどなどだ...。穏和な感じを見せるかと思えば即威圧的な話し方になる。後で振り返ると「何の話をしたのか?」と思うほど印象が薄いのだ。
そして決定的だったのは顧問弁護士が5人もいると豪語したその会社から提示された基本契約書は私の会社の顧問弁護士に相談するまでもなく、常識的な契約書から見ると多々おかしな部分が目立った。
帰社する車の中で目を通した限りでも、それは素人のつぎはぎのように思えた。そしてもっとも決定的だったのは、聞いていたとおり新築のビルに移った後に出向いた際、私の持論...そう...絵に描いたように典型的な超美人秘書がいたことである(笑)。

私は何かデータが出そろった気持ちで心構えが決まった。契約に則り、やるべきことは粛々とやらなければならいが、このビジネスは長く続かない覚悟をしておかなければならない...いつ終わってもよい心構えをしておくことがポイントのように思えた。それは即私の会社のスタッフらにも伝えた。
その後6ヶ月ほどは契約書に基づいた取引が続いたが、その間も数回の訪問そして反対に社長が私の会社に来訪されるなどのやり取りがあったがある日突然新しく社長に就任したという男から連絡が入り、そのビジネスは頓挫した。
企業は当然のことだが人事が入れ替わり、社長が替わることも珍しいことではないからそれが問題なのではない。しかし新社長の説明によればその原因が前の社長が会社の金を流用し、いわゆるトンズラしたとのこと...(^_^Winking。でも、それだけなら単なる取引先である我々にはまったく関係のないことなのだが、変な会社は新しく社長になる人も変なのだから始末が悪い(笑)。
新社長がいわく、まだ契約期間が半年も残っている当該契約に対して「高いから払えない」と言い出した。そしてそのトラブルのせめぎ合いが3ヶ月ほど続いた後に、あらら...またしても社長が変わった.....。
勿論そんな企業は上場できるハズもないし、問題の社長はその後テレビや新聞報道されたある事件の片棒をかついだとの事で逮捕され一部のニュースでは実名報道がなされたという。「やはりなあ...」というのが正直な感想だった。

規模は違うがあのホリエモンが率いていたライブドアも私には危なっかしいと思えてならなかった。結局最高責任者である代表取締役が粉飾決算、脱税、隠し預金などといった行為を進んで工作するような企業がまともな会社であるわけはない。彼らの目は顧客や株主に向けられているのではなく自己の資産を増やすことだとしか思えないではないか。
話を戻すが事実その会社は後から思えばベンチャーキャピタルなどから集められるだけの金を集めてトンズラするために設立されたような会社に思えた。
ともかく当時の私の会社としては3人目の社長の代に様々な折衝の結果、減額をさせられたにしても売掛代金の回収を行うことができ、致命的な損害は避けることができた。
その後どのような紆余曲折があったかは知るところではないが、私が意外に思うのは現在でもその社名の会社は存在するだけでなく驚いたことに問題の発端である最初の社長だった人がまたまた代表取締役に納まっていることだ(笑)。それも顔写真まで載せて...。
現在彼らのやっている企業活動がどのようなものであるかに興味はないが、ウェブで見る限りは「いかにも」それらしい...(^_^Winking。もし私のクライアントたちが取引をするような話を聞けば放ってはおけないから関わらないようにアドバイスをするだろうし一消費者としても関わらないことをお勧めする。
こうした人たちは人を引きつけるという意味では天性の秀でた能力を持っているのだろうが、その能力の方向が間違っている。そして彼らが二度三度同じようなことで甘い汁を吸うようなことができるわけはないと...世の中はそんなに甘くないと思いたい。しかし現実を見ていると彼らのビジネスが成立しているのであれば「甘い世の中」もあるんだという気もするしその影で様々な不利益を被っている人たちもいることになる。

話を戻すが、ではなぜ「美人社長秘書」がいるベンチャー企業は危ないのだろうか(笑)。その理由を説明するのはそんなに難しいことではない。
明確な技術やノウハウ、そして商品・製品でビジネスを起こすのではなく、言葉巧みに人から金を集めて線香花火のようなあるいは打ち上げ花火のようなビジネスを考える輩には人一倍の"看板"が必要なのだ。
人は弱い部分を隠したいがために、別の衣で武装しようとする。そのひとつが例えば身分不相応の豪華なオフィスであったり、本来は不用なはずの秘書を置き、資金力のあるまともな企業であるという体裁を整えたいと願う。それもとびっきりの美人秘書を置いて...。
貴方の会社に、美人社長秘書はいないだろうか?(爆)

Home

アップルビジネス昔話し〜プロが再び自信を持てる時代は来るか?

Photoshopしかり、DTPあるいはデジタルビデオしかり...。機材とソフトウェアがあれば誰でもがデザイナー、編集者、あるいはクリエータになれるといった錯覚はいまだ存在する。そしてその悪い影響でプロフェッショナルの仕事がやりにくい場合も生じる。今回は1991年に体験したコンペチターとの戦いと、わが国有数の大企業の立派な選択の話しだ..。



ビジネスには契約ならびに契約書は大変重要なものだ。そしてそれに至る見積あるいは見積書というのも神経の疲れるアイテムである。なぜならいうまでもなく、その見積額や条件によりそのビジネスが受注できるかどうかが決まるからだ。そして当然なながら、あらゆる受注に際しては必ずといってよいほど競争相手がいる。しかしそれが正当な競争なら良いが、なにやら訳の分からないコンペチターとやり合うこともあり、時にはドラマチックな展開を見せる事もある。

時は1991年の5月、わが国有数の大メーカーから電話をいただいた。別に機密事項ではないが、話題が話題なので企業名やプロダクト名は伏せさせていただくのでご簡便願いたい...。
大きな応接室に迎えられた私は、なかなか興味あるお話しを伺うことになった。その企業では新たな製品を発売するにあたり、米国のMacWorldExpo出展などをターゲットにしたプロモーションをデジタルで作りたいとのことだった。勿論我々に話が来たということは、いわゆるMacintosh版を指向したものである。
条件は英語版、長さは最長でも5分間ということで事実上、MacroMind Directorを使うという指示のもとで相談があり、見積依頼となった。とにかく米国市場向けということでもあり、いうまでもなく子供だましみたいな作品では役に立たないばかりか、それでは制作側の我々が笑われる。いかに新製品の特徴と魅力をアピールするか、そしてそのためにはどのような表現を考えるべきかが腕の見せ所となった。

クライアント側の求める基本的な絵コンテが出来上がるにつれて、単なるスライドショーでは面白くないことは明白で、大きなインパクトを与える"何か"が欲しいと思った。
私が考えた企画のひとつは、優秀なデザイナーを製作スタッフに加えること、ふたつ目はデジタルビデオを採用することだった。デザイナーはお付き合いいただいていた方がすぐに頭に浮かんだが、問題は動画である。
いまではQuickTimeのおかげで、ビデオ撮影した映像は苦もなくさまざまなメディアに活用されている。しかし、この話は1991年であることを忘れてはいけない(笑)。なぜなら我々の前にはQuickTimeは存在しなかったのだ。
ただ我々には自社開発のVideoMagicianIIというデジタルビデオツールが存在した。少々手順はかかるが、これを利用すればビデオで撮影した映像をMacroMind Director上に実写アニメーションとして採用できることを確信した。

さて、そうした内容の見積をクライアントに提出したが、その見積額は400万円を超えたものになった...。
一週間ほど経った頃だろうか。担当者から呼び出しを受けて再び私はその大きなビルのエントランスをくぐった。
開口一番、担当者は「松田さん、困ったことがありまして、一般論としてご意見を伺いたいとお呼びだてしました」と頭をかいた。
大企業であるからして、事は公平に運ばなければならないという一大前提があるという。腐れ縁や担当者の私情で特定の企業に対して発注したと受け取られてはまずいということらしいが、他のビジネス同様に今回の話しも別の所へ相見積を依頼したという。それはもっともな話だ...。
しかし、対等な競争であれば、その企画や提案の優劣から明らかに我々に分があるという結論だったそうだが、問題はその競争相手の見積額は我々の提示した金額より○がひとつ少ないというのだ...(笑)。安すぎるのだ。というか、反対側から見れば我々が高すぎるのだ(^_^Winking

「そんな額で、まともな作品が作れるものでしょうか」と聞かれた私は「それは私共が聞きたい台詞ですよ」と苦笑いした。確かにビジネスはその場だけの利益を考えてはいけないという側面も持っている。したがって口座を作りたいために大幅な値引きをして契約を取るといったことも日常茶飯事であろう。どうやら相手は個人のクリエーターらしくクライアントとの実績はなかったらしい。
ともかく私は精一杯のことをやった自負があった。他社ではでき得ない技術を導入したコンテンツ作りといい、プロフェッショナルのデザインワークを含むそのコンセプトには自信があった。しかし相手が内容でなく、価格だけで攻め、そして万一クライアントもその気になるなら打つ手はない...。問題はクライアントの判断力というか、どちらがなぜに優れているか。それが対価に値するするものであるかを判断する選択眼がなければ仕事をさせていただく我々は安心して良い仕事ができない。
私は平静を装いながら、当社のコンセプトからは先日提示した見積は妥当なものであり、価格の競争で質を落としたくはないこと。そして後は御社ご自身でお決めになることだとお話しして帰路についた。

さてそれから十数年も経つのに、その時の喜びは忘れない...。
やはり、日本有数の大企業の選択は単なる価格だけで決まることはなかった。クライアントの担当者から「上司ならびに米国担当者とも十分相談した結果、御社にお願いすることになった」との話しを受けたときは当該金額の何倍もの大きな契約を取ったときより嬉しかった。僭越ながらさすがに○○○○社だと思った。そして二ヶ月後に無事作品を納入し、関係者からはお褒めの言葉をいただいた。

しかし、いま同じような企画が持ち上がり、同じような状況下にあるとすれば多くの企業の選択は「安い価格で同じようなものが作れるなら」とその決定は目に見えていると思う。本来高度な仕事が安価でできるわけもないのだが、世相は安易にそちらの方向に流れている。
それも機材を整え、ソフトウェアを揃えてそれらを何とか使えるオペレータを雇えば、誰でも同じようなものが作れるという錯覚が満ちあふれているのもひとつの原因だ。そして大変残念なことに、プロフェッショナルたちご自身がこうした傾向に押し流されて自身の能力を安売りせざるを得ないハメになっているケースも多いと聞く。
時代が違うといわれれば、確かにそうだ。しかし作り手が自信を失い、良い仕事に十分な対価・報酬を支払うことを忘れた企業ばかりになってはわが国に未来はない!

Home

新刊「AppleジョブズのiPod革命」を読んでみた

3月15日に出版されたばかりの「AppleジョブズのiPod革命〜マッキントッシュ、ピクサー、iPodを生み出した男のカリスマの証明」(ぱる出版刊)をamazonにオーダーし読んでみた。



本書の「はじめに」で筆者は「本書はジョブズを中心に書かれたものだが、カリスマ経営者論として読んでいただければ幸いである」と記している通り、スティーブ・ジョブズに関する記述がほとんどだ。タイトルがタイトルだから当然といえば当然なのだが...。そしてある種の比較として本田宗一郎や出井伸之そして孫正義などの名も登場するがあくまで刺身のツマである。
iPodKakumei

結論めくがその内容はカリスマ経営者論を意図したものであったとしても「カリスマ経営者のなり方」の本ではない(笑)。また読破し納得したからといって読者がカリスマ経営者になれるわけでもなくジョブズのマネができるわけではない。本書はあくまでスティーブ・ジョブズの言動と経営哲学をこれまでの経緯から解説するという形になっている。
したがってスティーブ・ジョブズの生い立ちから現在に至るまで、彼の言動とカリスマと言われる所以を様々なエピソードを例にして解説しているが古いMacintoshユーザー、Appleユーザーであるならそれらのエピソードに目新しい話はなく周知の事実ばかりで正直私にとって内容的に得るところはなかった。
しかしiPodをきっかけに新たにAppleという企業を知ることになったユーザーは多いはずだ。そしてAppleを率いるスティーブ・ジョブズのことを知りたいと考える人たちには本書は読みやすくこれまでの歴史的事実を含めて要領よくまとめたその構成は最適であろう。

ただし重箱の隅をつつくようだがいくつか間違いや修正すべき箇所も目立った...。
例えばウォズニアックがApple Iを設計したエピソードに触れている箇所がある。その中で「...天才的な才能を発揮し(中略)効率的で合理的な設計による基盤を作り上げ、高い演算速度なのに使用基盤の数などを大きく減らすことができた。」とある。しかしウォズニアックの設計の妙は部品点数の少なさからくるシンプルさであり基盤を減らしたという表現は適切ではない。ちなみに記すなら電源を別にしてApple 1はマザーボード1枚とカセットインターフェースカードで構成されており、カセットインターフェースカードはApple 1に唯一用意されていた拡張用スロットに挿して使用するものだった。
続けて「起死回生!華麗なるマッキントッシュの登場」の項では「...そして、量産型パソコンでは初めて、マウスを採用した。」とあるが残念ながら正しくない。
Macintosh 128Kは1984年1月に発表されたがその前年の1983年秋に私はNEC PC-100というパーソナルコンピュータを2台購入した。それには2ボタンマウス(マイクロソフト・マウス)ながらマウスが標準装備されており日本語ワードプロセッサやマルチプラン(表計算ソフト)などがマウスでオペレーション可能であった。後日Appleの技術者がこのPC-100を見て驚愕したというまことしやかな噂もあるが本当かどうかはわからない。そして申し上げるまでもないが使い勝手の良し悪しという話はまた別であるが事実は曲げられない(笑)。
もうひとつ...。
筆者はジョブズがAppleを創業したての若かりし頃の話として「...ましてジョブズは長髪に無精髭、スーツなど着ることはない...」と98ページに記している。確かにジョブズは現在もそうだがTシャツとジーンズとスニーカーといった姿がほとんどだった。そして若い時代には菜食主義者だからシャワーも必要ないと信じていたため彼に近づくと臭かったという。しかしレジス・マッケンナやマイク・マークラの影響もあっただろうし、1979年前後でも自身がビジネスを成功させるために必要と考えた時には髪を整えスーツを着用したこともあった。ジョブズ自身...自分の欠点すなわちビジネスに疎いことを自覚していたからそのやり方はともかく向上心は強かった。この事は後にジョン・スカリーを口説いて迎えたことでも分かるだろう。
さらに筆者はあのホリエモンがラフなTシャツ姿を変えようとしなかったのはジョブズの真似ではないかと記しているが、ホリエモンの考えはどうあれジョブズという人物は比較にならない頭の良さと意固地なほどの頑固ながらも反面必要に応じた柔軟さも兼ね備えている。
このスーツを着用することもあったという事実は「iCon Steve Jobs〜The Greatest Second Act in the History of Business」(和書名:スティーブ・ジョブズ偶像復活)にも記されている。

さらに本書には一部「BASIC」を「BESIC」、「ピクサー」を「ピクシー」とするなどの誤植がある。これらは出版...特に初版にはありがちなことだが増刷時には是非にも直していただきたい。
ともあれ筆者のいわれる「...これほどの波乱のビジネス人生は世界の経営者の誰も追いつかないだろう。ハリウッドでなぜ映画化されないのか不思議でならない。」には同感だがジョブズの眼が黒いうちは絶対に無理だろう...(笑)。そして「事実は小説よりも奇なり」というが、どのようなフィクションをもってしても生身のジョブズの言動の魅力には勝てないと思うしこれからも目を離すことができない人物である。

_____________________________________________________________
 「AppleジョブズのiPod革命」
 〜マッキントッシュ、ピクサー、iPodを生み出した男のカリスマの証明〜

 2006年3月15日 初版発行

 著者:伊藤 伸一郎
 発行:株式会社ぱる出版  
 書籍コード:ISBN4-8272-0237-0
 定価:本体1,400円+税
_____________________________________________________________

Home

「ブートストラップ〜人間の知的進化を目差して」を読んで

本書はダグラス・C・エンゲルバートの研究の足跡を追ったものだ。エンゲルバートはこれまでマウスの発明者といった程度の知名度はあっても評価が低かった感がある。しかし近年こうした書籍などの影響もあり彼の評価が高まっていることは嬉しい限りだ。



Old Macページの「D.Engelbart伝説のプレゼンテーションが見られる!」というタイトルで少し触れた本書だがきちんとお勧めをしてみたい。
さて、他の文献もそうだが、米国を中心に進歩・進化したコンピュータ関連の歴史的論文や研究資料などは当然の事ながら英語である。さらに一部を除けば、この種の学術的な論文などは一般ウケしないばかりかその内容も些か難しいため、原書で読破できる人は限られている。
本書「ブートストラップ〜人間の知的進化を目指して/ダグラス・エンゲルバート、あるいは知られざるコンピュータ研究の先駆者たち」Thierry Bardini著/森田哲訳(コンピュータ・エージ社刊)は原著名「Bootstrapping」の翻訳本だがそうした意味でも貴重な一冊といえよう。
BootstrappingBook

BootstrappingBook_E
「ブートストラップ〜人間の知的進化を目指して」コンピュータ・エージ社刊表紙(上)と原著「Bootstrapping」表紙(下)


ダグラス・C・エンゲルバートの名は、我々Macintoshユーザーにとって...というよりコンピュータの歴史などに興味のあるユーザーには、アラン・ケイほどではないものの、知られている人物ではある。ただしそれは「マウスの発明者」といった程度の認識に終始する場合が多く、大方の認識もその程度ではないだろうか。
それらの出来事およびエンゲルバート自身の経歴は、なにか遠い大昔のことであるかの印象を持つ人もいるかも知れないが、幸いに彼は現在も健在である(1925年生まれ)。
ではなぜエンゲルバートという人物にこれまで大きな光が当たらなかったのか...。実はアラン・ケイ自身の大きな転機のひとつは1968年12月、サンフランシスコで開かれたコンピュータ学会でエンゲルバートが行った歴史的プレゼンテーションだったといわれ、事実それは「あらゆるデモンストレーションの見本」と評価されている。またマウスの利用などもそこで認知されたにもかかわらず、エンゲルバートの名が一般的に知られなかったのにはそれなりに理由もある。
一言でいえば、彼は当時の状況下ではアウトサイダーの一人だった。なぜなら彼は現在のようなコンピュータの大衆化・一般化を考えたのではなく、あくまで我々人類が解決できない複雑な問題をコンピュータを利用して解決したいと考えていたという。したがって多くの人たちが、一人一台のパーソナルコンピュータを持つことに考えが向いていた時期に、彼はクライアントサーバー型アーキテクチャを稼働させ、共同作業による問題解決を進めていた。それがある意味時代に逆行し、一部からはコンピュータというものを複雑に考えし過ぎていると非難されもした。
したがってというか、彼のブートストラップ原理は一般ウケするものではなかったということなのなのかも知れない。
本書の中でアラン・ケイの次の言葉は、そのニュアンスを的確に伝えている。
「よかれ悪しかれ、エンゲルバートはバイオリンを作ろうとしていたのに、ほとんどの人々はバイオリンを習いたくなかった」

エンゲルバートの出発点は、バネバー・ブッシュの1945年の論文にあると言われているが、その他多くの研究者もこの論文に触発されたといわれている。本書ではそうした背景から1950年代、あるいは60年代のコンピュータ関連開発の姿や米国の歩みの一端をエンゲルバートや有名無名の先駆者たちを通して垣間見られる点は貴重である。
当サイトの主張がそうであるように、現在我々を取り巻いているコンピュータ関連の状況は、これまたよかれ悪しかれ人々の思惑だけで動くものではなかったし一晩で発明されたり発見されたりしたものでもない。エンゲルバートを含む多くの先達が、それぞれの時代背景と各々の哲学により歩んだその枝葉のひとつなのだ。さらにこうした研究者らの挑戦は終わったものではなく、現在進行形でもあり、本書の解説をされている中央大学総合政策学部ならびに大学院総合政策研究科教授、大橋正和氏の言葉のとおりそれらは「未完の革命」であり、現代の我々はそれらを完成させる使命を持っているのかも知れない。
そうした意味においても本書は昔話に終わらせることなく若い方々に読んでいただきたい一冊でもある。

さて、本書の概要は多くの人の文献の引用およびエンゲルバートたちの論文や手稿を紹介しながら、著者であるThierry Bardini氏の論を展開していくものだ。そして冒頭にも書いたが、技術書でありながらある意味では哲学的な様相も呈しているため、もともと易しい文章ではないと想像する。
本書のイントロダクションに次のような記述がある。それはエンゲルバートの手紙として「コンピュータ技術の開花とその影響は、我々皆が実際に十分把握できる以上に、より壮大で社会的に重要なものになろうとしています」とあり、続けて別の手稿として「...コンピュータ技術のように目をひくものが地平線に大きく見えてきた場合には、さまざまな種族によって構成される機転の利く代表者たち---例えば、社会学、人類学、心理学、歴史学、経済学、哲学、工学などの分野の専門家---で構成される偵察隊を組織して、絶え間ない変化に適応する必要があります」と記されている...。
エンゲルバートのブートストラップ原理やその時代的背景を十分に理解するためには文字通り、単にコンピューティングやサイバネテックスといった特定の分野だけの知識だけでは把握ができない内容を含むことをも意味する。
このことは奇しくも私が1991年、技術評論社刊「Multimedia WORLD」に寄稿した「マルチメディアは環境か?」という内容で述べていることと同じであり、僭越ながらエンゲルバートの考えるところはよくわかる。
「Multimedia WORLD」誌で私は「マルチメディアの理想的な環境を実現するためには狭い範囲の学問では全く役にたたないのです。広い視野がどうしても必要なのです」とし、続いて「コンピュータ技術、プログラム、デザイン、心理学、言語学、社会調査、法律、教育、通信、情報、CG、医学、マーケティング、金融、経済、音響、建築、芸術など、それぞれの専門の立場から培ってきたノウハウを出し合わなければならない時期が来ていると思うのです(略)」と持論を展開した経緯がある。
MultimediaWORLDBook
※MacJapan別冊「Multimedia WORLD」1991年11月10日発行、技術評論社刊


ともかく大変難解であろう原著を訳された訳者の努力には心から敬意を表するものだが、特にエンゲルバート自身の文章訳部分が大変読みにくい。和訳を追っていくだけでは意味が通らない箇所が見受けられる...。
というわけで別途原著を手に入れ、本職の翻訳家である実弟に是非とも知りたい箇所を一部訳してもらったが弟が言うにはエンゲルバート自身の文体が悪い意味で技術屋のそれであり、そもそもが分かりづらい文章とのこと。
それにしても貴重な一冊であるだけに門外漢としてはもう少し分かりやすいものにならないかと思う。しかし続けて弟が言うには「この原著を翻訳する仕事はやりたいくないなあ...」と苦笑していたことからも訳者のご苦労が計り知れないものであったことも理解できる(^_^Winking

余談が続いたがエンゲルバートが夢見、目標とした仕事は現在の視点から眺めれば、40年あるいは50年早すぎたのかも知れない。
_____________________________________________________________
 ブートストラップ ー 人間の知的進化を目指して
 〜ダグラス・エンゲルバート、あるいは知られざるコンピュータ研究の先駆者たち〜
 2002年12月25日 第1版第1刷発行

 著者:Thierry Bardini
 訳者:森田 哲
 発行:株式会社コンピュータ・エージ社  http://www.computer-age.ne.jp/
 書籍コード:ISBN4-87566-256-4
 定価:本体2,800円+税
_____________________________________________________________

Home

今年もApple Computer社より年次株主総会案内が届いた

毎年のことだが今年もAppleから業績の報告書などと共に4月27日に開催される年次株主総会への案内状が届いた。無論株主総会へ出向くつもりはないが(笑)詳細な活動報告が見られるのでこの封書が届くのを毎年楽しみにしている。



報告書にざっと目を通してみたがガレージから起業しアメリカンドリームと謳われたAppleも現在在籍している取締役7人共に年齢が50歳を超える人たちばかりとなっていることにあらためて興味を持った。
Jerome B. York氏の67歳が最年長でSteve P. Jobs氏の51歳がそれでも最年少である。無論役員らの年齢がすべてを物語るわけではないがApple Computerはすでに危なっかしいベンチャー企業ではなく創業から30年、大きな危機も多々あったものの現在は堅実な大企業に成長したことを思い知らされる。
また資料から2005年度もCEOのスティーブ・ジョブズ氏の年俸はこれまで通り1ドルであることも明らかだ。
AnnualMeeting2006
本日届いたApple Computer社年次株主総会案内の封書


Appleの業績が良いことについてのニュースはすでに周知のとおりなので繰り返さないが2004年まで売り上げが振るわなかった日本市場も2005年は売上ベースでは前年度比36%増の成績であったことでひとまず安心した。しかし欧米での成績と比較するとまだまだ停滞気味の感もある。なぜなら売上数量では米国がMacintoshの販売台数に関し前年度比30%増、ヨーロッパが47%増なのに対して日本は8%増に甘んじているからである。
それにしてもiPodの売上の伸びは凄い。販売数は前年度比409%増であり売上高としては前年度比248%増という成績だ。そしてApple全体の粗利益も2003年度を基準にすると翌年2004年度は27.5%から27.3%とやや落ちたがこの2005年度は29%増に達している。

冒頭にも記したが、たった4株の株主(本来は2株株主だったが株式分割で4株になった)が費用と時間を費やしてクパチーノのApple本社で開催される株主総会に出向くという暴挙はできないが、こうした資料を毎年手に入れることができることは貴重である。

Home

Apple創立30周年に思う「私とAppleの出会い」

今年2006年4月1日、Apple Computer社は創立30周年を迎える。一部では何らかの記念に見合う新製品が出るのではないかという憶測もあるがさてどうなのだろうか...。
ところで30年前ということは1976年だが今回は私とAppleの接点を思い出してみた。



私自身の30年前すなわち1976年は決して良い年ではなかった。翌年の1977年に結婚式を挙げる事になっていたが勤務していた会社を辞める決心をしていた時期でもあったからだ...。そして金もなかった(^_^Winking
そんなもやもやしていたときにいわゆるマイコンと出会うことになる。そしてNEC TK80というマイクロコンピュータ・トレーニングボードが発売されたのがこの1976年8月なのである。価格は88,500円だった。しかしこの組み立てキットを知ったものの、ハンダごてを使う組立に自信がなかったことと予算の問題で結局翌年1977年12月(結婚の翌月)に組立済みとして販売された富士通FACOM Lkit-8を電源込み100,000円で購入した。
Apple30year_01
ワンボードマイコンの富士通FACOM Lkit-8


記憶もすでに薄れてしまったがこの1976年とか1977年にApple Computer社とかApple I あるいはApple II といった類の情報を知っていたかどうかについては正直心許ない。
但し1978年にはすでに「I/O」とか「マイコン」といった月刊誌を読み、簡単なプログラムなどを投稿していたからそうした雑誌の端端から最新情報は得ていたはずだ。
そしてこの年の12月にコモドール社のPET2001というオールインワンコンピュータを298,000円で購入したが、その購入に際してはじめてApple IIをはっきりと意識したことを記憶している。
Apple30year_02
コモドール社のPET2001と専用のドットインパクトプリンタ(EPSONのOEM)


何故なら本当はカラーをサポートしていたApple IIを欲しかったがあまりにも高価で手が出ずにPET2001を購入することにしたからだ。したがって1978年にはApple IIというパーソナルコンピュータの存在を文字通り高嶺の花として知っていたことになる。

私がApple IIの実物を最初に見たのはその1978年であり、場所は池袋の西武百貨店だった。
いまから思えば至極単純でアニメーションというよりスライドショーとも思えるものだったが店頭にディスプレイされたモニターTVには、ワインあるいはウィスキーのボトルから確か...シャンパングラスに色づけされた中身が注がれるというものだった。無論ボトルもグラスも3Dなどではなく単なる線画だったが私の目にはそれが大変美しく映った。そしてパソコンで絵を描き動画を作れる可能性を発見して驚喜した。

結局私がApple IIの構成部品を秋葉原で買い求め、いわゆる非合法のコピー品を組み立てたのが1982年6月、そして自責の念から(笑)何とか本物のApple IIJ Plusを買ったのが同年12月であった。
Apple30year_03
Apple IIとライトペンシステムで女房が絵を描いているところ(1982年撮影)


その間前記したPET2001の他、シャープのポケットコンピュータPC-1210、カシオのデスクトップコンピュータFX-9000Pなども手元を通過していったがApple IIは特別であり多くの夢を与え続けてくれた。
私はこのApple IIやその後のApple IIeでゲームは勿論、カラーグラフィックス、ビデオデジタイザ、ミュージック・シンセサイザー、3D、音声認識と音声合成、アニメーション、ネットワーク、ワードプロセッサ、スプレッドシートなどを実体験しただけでなくBASICを始めとするTINY Pascal、LOGO、LISPといったいわゆる当時の高級言語とよばれる開発環境を勉強しパーソナルコンピュータの可能性に大いに触発されたのだった。
Apple30Year_06

Apple30Year_04

Apple30Year_05
Apple IIによるアドベンチャーゲーム例(上)およびTINY Pascal起動画面(中)と当時本格的なアニメーションシステムとして知られていたTGS(The Graphic Solution)(下)


今から思えば「パソコンで絵を描く」「パソコンでアニメーションを作る」といった動機と夢がそのまま続き、結局パーソナルコンピュータのソフトウェア開発を仕事にしてしまったそもそものきっかけがApple IIだったといえる。

但し振り返ってみると当時はApple IIという製品そのものに興味のほとんどが向いており、それを開発したApple Computerという企業や、ましてやスティーブ・ジョブズならびにスティーブ・ウォズニアクたちのアメリカンドリーム云々の話には興味はなかった。というよりそうした情報がほとんど入ってこなかったことも原因だろう。
そもそもAppleという会社のイメージは良いものではなかった(笑)。価格が高いのはともかく、製品にバラツキがありサポートも不十分で漏れ聞こえる噂からは傲慢なベンチャー企業といった感じを受けていた。そして手元にあるApple IIというパソコンをいかに使うかといった情報以外の情報は遠い米国の話であり、私たちには関係のないことと認識していた。
Apple30Year_00
1982年のApple Service And Supportガイドブック表紙に掲載されていたイラストレーション


私がApple Computerという企業を意識し始めたのはやはりMacintoshが登場した1984年以降であった。そして企業としてのAppleをきちんと意識せざるを得なくなったのはこれまた私が起業しアップルコンピュータのデベロッパーとして活動を開始した1989年からである。さらに1988年からサンフランシスコやボストンで開催されるMacworld Expoに出向くようになり、国内にはなかなか入ってこない幾多の最新情報に直接触れることができるようになったことがAppleへの興味を増幅させることになった。

今から思えばApple IIに...Macintoshに出会っていなければ現在の私は存在しなかったはずだ。そして結果論ではあるが1989年から2003年の間、どっぷりとAppleあるいはアップル業界に両足を...否、頭の先まで突っ込むはめになった(笑)。
その14年間は僭越ながらデベロッパー各社の中でも常にアップルビジネスの最前線で活動でき、良くも悪くも激動のその場その場にいたことを今では誇りに思っている...。
とはいえ正直に言えばそれらのビジネスで受けた様々な経験・体験は楽しい事ばかりではなく現在でも公言することがはばかれる幾多の出来事もあった。
いずれそうした封印が解ける時期もくるだろう。その時こそ日本のアップル市場を俯瞰した目で眺めながら私なりの「小説 アップル/ソフトハウス物語」でも書いてみようと思っている(^_^)。

来月の4月1日はエイプリルフールだが(笑)、Appleから30周年記念のアイテムが発表されるかどうかは別にして「よくもまあ...飽きずにAppleとつきあってきた記念」として祝杯でも挙げようと思う(笑)。

Home

伝説のエバンジェリスト〜ガイ・カワサキの思い出

元Appleの伝説的エバンジェリストであり、一時期フェローでもあったガイ・カワサキはMacintoshの登場時にMacを普及させるために、そしてMacそのものにとっても最も重要なのはソフトウェアだと唱えた最初の一人だった。



ガイ・カワサキはソフトウェアの重要さをアピールし、そのソフトウェアを開発するデベロッパー各社を精力的に訪問してMacintosh用ソフトウェアの充実を図った功労者でもあった。彼の働きそのものからエバンジェリストという職業が確立したといえる。
しかし現在の視点から見るならエバンジェリストという仕事はどうということもない仕事に思えるかも知れないが、彼の能力が発揮されたのは20年以上も前の事であった。そして難しいことにその対象であるMacintoshは当時十分なメモリもなく、ハードディスクもなく、モノクロでたった9インチの小さなモニタでしかなく、拡張性もなく、大変高価で市場性を疑われたコンピュータだったのだ(笑)。
だからガイ・カワサキはよほど話が巧いか、押しの強い人間であろうというイメージを持っていた。そして彼は大絶賛される反面敵も多い人であると聞いたことがあったがそれは彼がデベロッパーに対して約束したことの多くが彼の責任でない事も含めて実現できなかったかららしい(^_^Winking
当時のエバンジェリストとはやはり大変な任務であったのだ。

彼は著書「それでもMac大好き!〜ガイ・カワサキのマッキントッシュ不用語辞典」の冒頭でいう。
「失敗と成功を何度も繰り返した私は、ビジネスにおける第一の法則は『約束は控えめに、そして実行は十分に』であるという結論に達した」という。さもありなんであろう...(笑)。また続けていうビジネスの第二法則が素敵だ。
「(自分を)好いてくれる人間ではなく、嫌う人間によって自分の価値を知れ」
けだし名言である。
こうした彼の著書などでイメージを膨らませていた私だったがついに直接彼に会う機会を得たのである。
GKawasaki_02
※1994512日初版「それでもMac大好き!〜ガイ・カワサキのマッキントッシュ不用語辞典」表紙。発行:(株)トッパン ISBN4-8101-8583-4


それは1996年7月のことだったがデベロッパリレーションズ副社長だったハイディ・ロイゼンと共ガイ・カワサキも来日した。それは9日と10日の両日、東京ベイ・ヒルトンにおいてJDC(ジャパン・デベロッパー・コンファレンス)が開催されたためである。
ガイ・カワサキは一時Appleを離れて会社経営やコラムニストとして活躍していたが、1995年7月にそのハイディ・ロイゼン氏に請われてアップル・フェローとして再びAppleに復帰したわけだ。しかし現在はまたその職を離れている。

さてそのパーティの席でアップルコンピュータ社の担当者にガイ・カワサキを紹介してもらった。アップルの担当者は「松田さんは日本の大いなるエバンジェリストです」と持ち上げてくれたが本家・元祖の前で私はミーハーぶりを発揮し、早速一緒に写真を撮る許可をもらった(笑)。
GKawasaki_01
ガイ・カワサキ氏とツーショット


実際に会ったガイ・カワサキの印象は、彼のこれまでの精力的な活躍を見聞きし、その著書「徹底的に敵をヘコます法」や前記した「それでもMac大好き!〜ガイ・カワサキのマッキントッシュ不用語辞典」などを読んだイメージとはかなり違い、意外なほどシャイだったのに驚いた。
またその風貌を見るとアメリカ人ということを忘れ、思わず日本語で話しかけたくなるほど日本的だったが、さすがにそのパワーとユーモアは伝説の人そのままだった。
しかし大勢がいるパーティーの席で、著名人を独占するのはマナー違反でもある。私はもっともっと質問したいこともあったが、残念なことにものの5,6分しか話ができなかった。ともあれ彼はジェントルマンでありユーモアに満ちあふれバランス感覚を持ったノーマルなビジネスマンであることを確信した。
伝説のエバンジェリストは努力の人だったのである。

Home

上手なプレゼンは「上質のジャズ演奏のように...」が理想

本場米国のExpoなどを見るにつけ、最初の頃は随分とカルチャーショックを受けたものだ。それは「何故こっちの人たちはプレゼンにしても商品説明にしても、上手なんだろう」ということだった。



それも話は滑らかに、そして絶妙の間とユーモアに充ち、ボディアクションも豊かに説明する彼ら彼女らは決して外部からこの日のために雇った専門家ではなく、そのほとんどが社員たちなのだ。
ApplePresen
※Macworld ExpoのAppleのブースで魅力のある説明を行う女性


それに引き替え、日本のこの種のイベントは大手企業ほど、いわゆるコンパニオンを並べて型どおり自社製品をアピールさせるというやり方が大半となる。集まる客も製品を見に来ているのかコンパニオンの写真を撮りにきているのか分からない人たちも目立つ(笑)。しかし本場のMacworld Expoではまずこのようなブースは少ない。

当初私はアメリカの人たちがこれほど優れたプレゼンができる理由のひとつに英語と日本語の違いがあるのではないかと考えた。英語だからこそ、あのテンポと抑揚がでるのかも知れないと考えたわけだ。そして二つ目はいうまでもなく教育の違いである。
私たちの年代は特にどちらかというと幼少から自己主張をしないようにと教育された傾向は否めない。特にお喋りの男は嫌われた(笑)。寡黙が美徳のように思われた時代もあった。それがどうだろう、今では明石家さんまのような芸人が人気の的だ(爆)。
それはともかく多民族国家のアメリカでは、生きていくため良い意味での自己主張が不可欠だという。
こう考えると私たちがアメリカ人のように、大勢を前にして上手なプレゼンを行ったり講演をすることはなかなかに難しいこととなってしまう。
VideoToaster
観客の視線を自在に操り、絶妙なプレゼンをするVideoToasterブースのスタッフ(Macworld Expoにて)


ただしアメリカ人だって練習もせずに、誰もがあのように上手な話し方ができるとはどうしても思えないから当然のことながら裏では最大の努力をしているに違いない。
FractalDesign
お遊びなのだろうが幼児がヘッドセットを付け、絵を描きながら説明する様は思わず立ち止まってしまう(FractalDesign社ブース)


そんな事を考えていたとき思いあたったことは、日本の文化にも「笑い」「絶妙の間」[絶妙のテンポ]「流暢な話し方」そして「ボディアクション」を常に取り入れている伝統芸があることを思い出した。それは皆さんもよくご存じの「落語」である。
私も落語は好きなほうで、たまには名人と言われる人たちの芸を見聞きすることがある。
手ぬぐいと扇子だけでどんな世界にも客を引き入れてしまう落語の存在を思い出したとき、「日本語では上手な話し方ができないのでは...」という思いが払拭されたような気がした。

日常会話とは違い、自社の製品をアピールするにはそれなりの技術が必要だ。大げさにいえば真剣勝負の気迫も必要なのだと思うが反面ある意味で冷静な計算も必要である。しかし残念ながら私達の多くはこの種のアピールに慣れていないばかりか、正直いって勉強不足ではないだろうか。人前で大きな声を出すことひとつでさえ訓練した人がどれだけいるものか...。
それから、ただ単にテンポがよく、抑揚のある話し方をすればそれで良いわけではない。
通りかかった人たち.....すでに目を向けている人たちが興味を持ち、自社ブースの前で立ち止まって話を聞いているとき、単にマニュアルどおりの説明を喋っていてはだめなのである。それではこちらが口を開いた瞬間にお客様は去ってしまう(^_^Winking

ところで私はよく秋葉原に出向く。無論電気街をいつものように一回りするのが楽しみなのだが、もうひとつの楽しみが駅前にある。それがそこで包丁や洗剤などを店頭販売している人たちの話術を聞くことだ。
なにしろ駅前の人だかりの中で30分もその話術に耳を傾けていることもしばしば...(笑)。事実私自身がかつてブースに立ち、大勢のお客様に対峙する語り口の中には、これらの方々から拝借したテクニックがたくさんあるのだ(^_^)。
また現代ではあまり見聞きしなくなったが、フウテンの寅さんよろしく香具師たちの口上を見聞きするに、唸ってしまうほど客の心理をとらえた話術がたくさんあるのに気が付く。
例えば回りに集まったひとたちを自分の説明が終わるまで離れないようにするテクニックは...こんな切り口上ではじめるのだそうだ。
「え〜こういう人の多い場です。皆さん方には懐に十分注意してくださいよ。なに、この商売も長い間やってるとね、スリが誰なのか...なんてすぐ分かる!」「現にね、この中にもスリがおいでになる! さあさあさあ、懐に気を付けて話を聞いとくれってんだ...。」
こんな話をされたんでは、いますぐイソイソとその場を離れるとスリではないかと皆に思われると考えてか、誰もがその場を離れられなくなってしまうという。
大げさでなく、我々の文化にも上手に語る文化はあったのだ。

しかし多くの土地や場所で、さまざまなシチュエーションによるプレゼンあるいは講演や店頭での説明係りをやってきたが自身の体調やテクニックもさることながらお客様が少しでも乗ってくれると大いに調子は上がるものだ(^_^)。
以前大阪で展示会があったとき、一日に数回短めのプレゼンテーションを頼まれたが初日が終わったとき関係者のお一人からお褒めの言葉をいただいた。
「松田さんって凄いですね。テーマが同じなのにこちらが10分とお願いすればピッタリ10分で...20分でとお願いしたらこれまたピッタリ時間内で起承転結が完結するのですから...」と。
ひとこと「プロですから」と笑ったが、これでも影で滑舌や時間の配分方法を随分と練習してきたのである(笑)。

大勢を前にした際の話し方の理想は入念な練習・訓練を積んだ上で、実際のプレゼンやデモンストレーションあるいは講演時にそうしたそぶりを少しも見せず、あたかもアドリブであるかのような結果が出せれば成功なのだと思っている。ちょうど良質のジャズ演奏のように...。

Home

Apple最高技術責任者エレン・ハンコックの思い出

エレン・ハンコック氏はAppleのCEO、ギル・アメリオに依頼されAppleの最高技術責任者兼研究開発部門の副社長としてAppleに入った。皮肉にも彼女が最初に決断したことはコープランドの開発が絶望的であるということだった。



優れたOSとして登場したMac OSだがその生誕から10周年である1994年あたりになると時代の進化に遅れを取っている部分も目立ってきた。すなわち「モダンOS」と呼ばれる機能だ。
プリエンプティブ・マルチタスク...すなわちCPU機能を適宜割り振り、複数のアプリケーションを同時に実行できる機能。そしてメモリプロテクション(メモリ保護)...すなわち特定のプロセスがトラブルを生じても他のプロセスのメモリ空間には影響を与えないという機能を望まれていた。
現在のMac OS Xにはそのどちらの機能をも理想的な形で搭載されているがこの話はそれ以前の物語である。そして当時の問題としてはそのどちらもWindows95にはすでに搭載されていたのであった。

さて「コープランド(Copland)」はMacintosh用モダンOSの開発コード名であり、Appleを再び業界最前線に引き戻す革新的な新オペレーティング・システムとして当時大がかりにアナウンスされていた。そのCoplandが初めて公式に発表されたのは1994年のことだが、それまでにもAppleはデベロッパーに対して、タリジェントの"ピンク"など、モダンOSの登場を示唆し続けてきたが一向にそれらは登場する気配がなかった。

エレン・ハンコックはナショナル・セミコンダクター社において当時のApple CEOギル・アメリオ腹心の部下だった。アメリオに請われエレン・ハンコックは1996年7月に最高技術責任者兼研究開発部門の副社長就任した。しかし皮肉なことに彼女が決断した最初のことは問題のCopland自社開発は無理だと判断し、その必要なテクノロジーを外部から求めるようCEOに進言したことだった。
技術最高責任者が社内の開発進捗具合を調査した結果、Coplandを完成することは「難しい」と結論づけたのだ!!。
それまで数年間、Coplandに対応する製品を開発しようと人的リソースはもとより開発資金を投入し、Appleを信じてついてきたデベロッパーたちは激怒した。中にはAppleに絶望し、二度とAppleには関わりたくないと断言して業界を去ったデベロッパーたちもいた。

モダンOSを自社開発できないと決断した後、問題は「では、どうするか」だった。外部にパートナーを求めるしかないわけだが、最初にAppleが目をつけたのが1990年にAppleを退社し、Be社を設立したジャン=ルイ・ガッセー率いるBe OSだった。しかし結果論だが技術面よりガッセーはAppleの弱みにつけ込み過ぎ、足下を見過ぎた。そのためAppleの思惑を遙かに超える売値を提示したことが最終的には採用されなかった一番の原因ではなかったか...。
採用を考えられたモダンOSにはBeOSの他に、SUNマイクロシステムズのソラリスなどとともに、驚いたことにはマイクロソフトのウィンドウズNTという噂もあった。

こうした紆余曲折の中で1996年12月20日、AppleはすでにNeXT社を買収する意向を、そして翌1997年1月のMacWorldExpo/SFにおいて新Mac OS戦略のRhapsodyの発表を行った。RhapsodyはNeXTのOSおよび開発環境であるNEXTSTEPをマルチプラットフォームに発展させたOPENSTEPをベースとして開発された。
一番の問題はいかにしてCoplandの資産をNEXTSTEPと融合して新しいモダンOSであるRhapsodyとするかにあった。そして世界のデベロッパーたちが賛同し、Appleについてきてくれるかどうかにあった。

1997年2月に幕張で第7回MacWorldExpo/Tokyoが開催されたとき、アップルコンピュータ社の肝いりで私をも含む日本のデベロッパー代表がエレン・ハンコックと面談できることになったが、彼女と会うタイミングはそのように大変難しいデリケートな状況時だったのである。
勿論私たちと会うその目的は単なる雑談であるはずはなく、我々日本のデベロッパーにAppleの現状...新Mac OSの進捗状況を説明しよう...理解させようという意図でお膳立てされたものであった。

見晴らしの良いホテルの一室に設けられた会議室の窓側を背にしてテーブル中央に座ったエレン・ハンコックは技術者というよりアメリカのホームドラマに出てくる品の良い金持ちのオバチャンといった感じの人だった。
頭髪はほぼ銀髪であったがそのシックな服装にもかかわらず、彼女のトレードマークとされた肩に巻いたブルーとピンクが目立つかなり派手なデザインのショール(スカーフ)が印象的だった。
EH
向かってエレン・ハンコックの右が筆者。ハンコックの左が当時のアップル代表取締役 志賀社長


当日の話題は当然ながら「Appleの次世代OS戦略およびそのタイムスケジュール」に絞られた。我々デベロッパーはRhapsodyがCoplandのように大幅に遅れたり、最悪はまた出荷できないようなことになるのでは...と心配していた。
エレン・ハンコックはAppleのモダンOS実現のため、NeXT社を買収したことを説明し、それまで数社と交渉中であったこと、そしてなぜNEXTSTEPにターゲットを決めたかについて触れた。ただしいま思えばはったりであったが「多くの選択肢の中にはまだAppleの独自開発という選択肢も残っている」と明言することを忘れなかった。
「Appleを引き続き応援して欲しい」といった話に続いて会話の行きがかり上、エレン・ハンコックは私の方を向き「OSが変わるのはデベロッパーとして大きな負担ですか?」と質問された。
私はすかさず「確かに大変な負担ですが、私はこれまでOSが変わることより、多々Appleの担当者が変わる事で苦労をしてきました」とその場の雰囲気を和らげようとして答えた。彼女は両手をあげながら笑い「そうね...」と悪戯っぽい表情をして賛同を示した。
続けて私は「ところで、選択肢の中には本当にウィンドウズNTも入っていたのでしょうか」とこれまた努めて柔らかな口調で質問したが、それには苦笑しながらも「ノーコメント...ノーコメントです」と答えた姿が脳裏に焼き付いている。私はエレン・ハンコックのこの返事とその物言いから噂通り選択肢の中にウィンドウズNTも含まれていた...それだけAppleは逼迫していたのだということを確信した(^_^Winking

Appleはその後にRhapsodyを1997年10月、デベロッパー各社に対してPowerMacで動作する最初のバージョンを提供した。
RhapsodyCD

ただしその後はまだ記憶に新しいがスティーブ・ジョブズが暫定CEOに復帰し、Mac OS Xを発表するに至ったことは皆さんよくご承知の通りである。そして1997年7月、エレン・ハンコックはCEOのギル・アメリオがAppleを辞任するのと同時にAppleを去った。
この一連の顛末はAppleの歴史にとって最大級のピンチであり、ある意味汚点でもあったが私はその歴史の単なる傍観者でなくその真っ只中にいたのである...。

Home

Apple 元DR副社長ハイディー・ロイゼンの思い出

アップルのビジネスを、そしてそれらに関係する人々を魅力的に紹介する書籍や記事は多いが、当サイトで紹介しているAppleの元キーマンたちの思い出は、私自身が「ビジネスとしてAppleに直接関わり」「実際にその場にいた」リアリティを少しでもお伝えできればと思っている。
今回は元デベロッパー・リレーションズの副社長だったハイディー・ロイゼン氏の思い出である。



1996年7月9日と10日の両日、東京ベイ・ヒルトンホテルにおいてJDC(ジャパン・デベロッパ・コンファレンス)が開かれた。その際にアップルコンピュータ社の尽力により、来日していた当時のAppleデベロッパー・リレーションズの副社長ハイディー・ロイゼン氏とMOSAの役員および理事を含めたミーティングが実現することになった。
ハイディー・ロイゼン氏は、当時アップルのCEOであったギルバート・アメリオ氏の要請でAppleに入社したらしい。彼女はもともとT.Makerというアップル関連ソフトウェアのデベロッパーの社長であり、我々アップル関連製品を開発し販売する企業側の理論であったり、要望や思いというものを理解してもらえるはずだという大きな期待を一心に受けて就任した人だった。
当時アップルは業績が大変悪く、デベロッパーとの間もギクシャクしていた部分もあったので、彼女に直接会い、話が出来るチャンスは私にとっても大変貴重なものだった。
HR_00
壇上でワイングラスを片手に会場を盛り上げるハイディー・ロイゼン氏(左)。右の白いTシャツ姿はガイ・カワサキ氏


ミーティングはホテルの会議室で行われたが、確か1時間半程度のものだったと記憶している。それも通訳を介することもあり、事実上の意思疎通はその半分程度になってしまうことは明白だったが、ポイントを得たテンポのある語り口はなかなか魅力的だった。そして大変率直な人だった。
事実ミーティングはリラックスした中にも大変有意義な会話が続いた。ハイディー・ロイゼン氏は我々が考えていた以上にアップルの市場、コミュニティを活性化させるためにデベロッパーの存在が重要であるという点に理解を示していた。
「皆さん方の製品をいかに店頭に置くか、そして販売するか、それが問題なのです」と彼女は熱心に語り、そのためにかなりの予算をすでに確保したという具体的な話まで胸襟を開いて語ってくれた。
いかにしたらひとつでも多くの魅力的なアップル関連製品を市場に生み出し、それを顧客の手に渡すことが出来るかを真剣に考えている姿勢が伺えたことで、私は感激し少し安堵した。
HR_01
ハイディー・ロイゼン氏と筆者のスナップ写真。実際は16人ほどの集合写真である


ミーティングが終わってから聞かされたことだが、実は彼女は前日から風邪をひき、熱があったとのこと。それをおして予定を違えず、当日の会議に出席してくれたのだった。
しかし現実には残念なことに彼女の努力にもかかわらず、いくつかの重要な具体策は実行されることはなかった。なぜならハイディー・ロイゼン氏はスチーブ・ジョブズ氏が復帰し、ギルバート・アメリオ氏が退任後すぐにアップルを去ったからである。
個人的にはCEOのギルバート・アメリオ氏が退任した時よりハイディー・ロイゼン氏がAppleを辞めたニュースに私はショックを受けたものだ。

最近特に思うことがある。
ご承知のようにアップルの歴史、アップルの内幕を紹介する本や記事は多い。それらの中ではOSの歴史などとシンクロし、Macintosh誕生前後から多くの技術者たちの魅力ある健闘ぶりや苦悩が紹介される。
それらにはスティーブ・ウォズニアク、ジェフ・ラスキン、ビル・アトキンソン、アンディー・ハーツフェルド氏などなどの名がよくあげられる。次に目立つのはジョナサン・アイブ氏を始めとするデザイン関係者だろうか...。
確かに彼(彼女)たちの努力がなかったら今のAppleやMacintoshは誕生しなかったし、存在しなかったかも知れない。しかし彼らと同様に彼らが開発し、商品化したものを一人でも多くのユーザーの手に渡すことに努力をしてきた営業や販売企画にたずさわる多くの人たちのことはほとんど表に出てこない。私にはこのことが不満でならない。
最新のテクノロジーに直接関わり、新しい製品を生み出す技術者たちの動向は目につきやすくまた紹介しやすいのは分かるが、経営者は別としていわゆる間接部門の人たちの支えと努力がなければ、Appleといえども企業を継続していくことはできない。
繰り返すがAppleの創業当時にAppleIIを作り始めた時とは違い、例え良い製品を開発したところで、それに適切なコンセプトを与え、市場性を考慮し、販売戦略を考えなければ物は売れない時代である。

そうした意味においてもAppleにはハイディー・ロイゼン氏のようにデベロッパーの立場はもとよりその苦悩と不満を親身になって感じ受け止めてくれる責任あるポジションの人がいまこそ必要だと思うのだが...。

Home

前Apple社 CEO ギルバート・アメリオの思い出

ギルバート・アメリオ氏は1995年2月から1997年7月までの間Apple社の会長兼CEOを務めた人物だ。彼は過去に米ナショナル・セミコンダクタ社を建て直し、再建家の異名をもつ実務派だった。アメリオ氏は確かにAppleを再建できなかったが、その種を残したという点でもっと評価されるべき人物だと思う。



事実当時の無能な重役たちを一新し、財政面でも資金調達を果たし、ユーザーやディーラーたちがAppleにとって一番の資産であると明言したCEOだった。
ここに1996年11月5日(火曜日)の日本経済新聞朝刊に載ったアップルの全面広告がある。アメリオ氏のバストアップの大きな写真と共に「メーカーの理論より、ユーザーの実感の方が、はるかに正しい」というコピーが印象的だ。ある意味ではこれまでのCEOの中で、一番ユーザーに目を向けたCEOだったといってもよいだろう。
Gil_AmelioNewspaper
1996年11月5日、アップルコンピュータ社は朝日新聞朝刊に全面広告を掲載した


実はこの新聞にはエピソードがある。
1996年11月5日という日は事前にアップルから招待状が届いており、アメリオ会長が来日するのでディーラーやデベロッパーの方々にご挨拶したいという主旨のパーテイーが開催されることになっていた。
その朝、出社し早速広げた新聞に先の広告が掲載されているのを見た私はひとつの決心をし、その広告ページを軽くたたみ込んでスーツの裏ポケットに押し込んだ。

会場に到着するとすでに大勢の人たちが出入りしていたが、何とアメリオ氏がアップルの人たちと共に入り口に並んで迎えに出ていた。単純な私はそれだけで「いい人だ...」と思ってしまった(笑)。何故ってこれまで多くの同種の集まりがあったが、そんな演出は一度もなかったからだ。
さて、その会場入り口に進む途中でアップルのデベロッパー担当者に出会った。挨拶を交わした後に私は彼に今日の作戦を話し、まずはアメリオ氏に紹介して欲しいと頼んだ。
早速担当者は型どおり私を紹介してくれ、先の作戦を実行してくれた。
それは「本日、あなたの写真が大きく掲載されているアップルの新聞広告が出たが、松田さんは今日の記念としてそこにサインが欲しいといっている」というお願いだった。なにしろ来場者が次々と入ってくる中での事だ...。
どんな反応が返ってくるか、私もちょっとドキドキしたがアメリオ氏は嫌な顔もせず、反対に満面のテディベアーみたいな笑顔で私の無粋な願いを受け入れてくれた。私はさらに、「申し訳ありませんが、ここに今日の日付を書いてください」とまで頼み、大きな暖かい手と握手をして部屋に入った。その時の新聞、その時のサインがこれなのである。
GilbertAmelio_sign
ギルバート・アメリオ氏の直筆サイン


ギルバート・アメリオ氏とはその後、1997年2月のMacWorldExpo/Tokyoのときに幕張のホテル・ニューオータニのトイレで再会を果たした(笑)。

さて現CEOのスチーブ・ジョブズ氏の返り咲きがなかったらAppleはこれだけ劇的な再生を望めなかった事は確かだろう。しかし最悪の状態にあったCoplandの開発計画を止め、NeXT Software社の買収を決定し、NeXT社のOSをベースとした現Mac OS X開発のきっかけをつくる役割を果たしたのは間違いなくアメリオ氏であった。また周知のようにAppleの創立者であり、NeXT Software社のCEOだったスティーブ・ジョブズ氏をアドバイザーとして招き入れたのもアメリオ氏の決断である。
結果として彼はAppleを再生する重要な橋渡しをしたのだ。自身も熱心なAppleユーザーだったというアメリオ氏だがもし別のCEOだったらとっくに身売りをしていたかも知れない...。そうだとすれば無論今のAppleはない!

この辺の事情はウィリアム・L・サイモンがアメリオ氏にインタビューをしてApple在任中の17カ月間を綴った「アップル薄氷の500日」(1998年ソフトバンク刊)に詳しい。無論ここに展開されるAppleの姿はアメリオ氏側からの見方でしかないがAppleの存亡がかかった時期の一端を見ることができる。

Home

Appleフェローだった、D.A.ノーマンの思い出

これまでApple Computer本社のキーマンたちにお会いしたり、ミーティングをしてきたことは大変エキサイティングな経験だし貴重な体験である。また概してApple本社の人たちは個性が強く、印象に残っている人たちが多い。
今回は認知科学者としてもよく知られているドナルド・A・ノーマン氏の思い出をご紹介したい。



ドナルド・A・ノーマン氏は1996年にいただいた名刺によれば当時、Appleフェローであると同時に先端技術グループの副社長という肩書きだった。しかし彼の第一印象は他のApple役員たちとのそれとは異質なものを感じたがそれは彼がビジネスマンであるという以前に学者であるからだ。
カルフォルニア大学サンディエゴ校の心理学教授であったし認知科学研究所の所長、そしてアメリカ認知科学会の創設メンバーのひとりでもある。そうした経歴の持ち主がなぜAppleの職にあったかについては知るよしもないが、あのアラ ン・ケイもそうであったように、Macintoshという製品をよりよく使いやすい製品にするために請われたのだろう。

私自身、仕事にも関係するのでいわゆるヒューマン・インターフェースといったことには大きな関心を持っているし、少なからず勉強をしてきた経緯がある。そうしたなかでドナルド・A・ノーマン氏の名はよく知っていたが、まさか直接お会いし、話をする機会に恵まれようとは夢にも思わなかった。
1996年2月のMACWORLD Expo/Tokyoはなかなかに忙しかった。自社ブースを持っていたこともあり、その後の自社主催のパーティーの準備などで我々はてんてこ舞いだった。
記憶はあまり定かではないがアップルコンピュータ社のデベロッパー担当の方からExpo開催中に「アップル・フォーローのノーマン博士が来日しており会食の場を設けるから出席いただきたい」という依頼を受けた。これがどこかでプレゼンをしてくれといった類の依頼なら時間がないことを理由にお断りしたのだが、事がノーマン博士に会えるということで私は一気にミーハーモードとなり勿論了解してしまった(笑)。

Expo会場に隣接するホテル・ニューオータニのレセプションルームだったと思うが、数社のデベロッパーの代表者の方々と共に私も大きなテーブルの席についた。ドナルド・A・ノーマン氏の第一印象は「思ったとおり」といった感じだったが、そのヒゲモジャの表情は穏やかであり誠実そうで、特に眼鏡の奥のその目が印象的だった。
用意された食事をいただきながらの会談が続いたが、私たちの興味はAppleにおける博士のポジションであり、Appleについての未来図であった。そうした事柄について話すとき、ノーマン博士はコブシで軽くテーブルを叩きながらの大変力強い話し方になる。
現在のAppleという会社の長所と短所、そしてAppleという企業がどのような方向に向かいどのような製品を出すべきかなどについて博士は熱っぽく語ってくれた。
私はこうしたチャンスには意図的にいくつか質問する方なのだが、この時は自分から質問をした記憶がない。質問をする必要がないほどドナルド・A・ノーマン博士は私の知りたいこと、興味のある事柄について話をしてくれたように思う。

所定の時間がきたときアップルの担当者が十数冊の本をテーブル上に持ち出した。なにが始まるのかと思ったがその本はドナルド・A・ノーマン博士の著書「誰のためのデザイン?〜認知科学者のデザイン原論」(The Psychology of Everyday Things)の翻訳本(新曜社刊)だった。
嬉しいことに本の扉に "To Matsuda-san Tokyo feb.1996" という記述と共に、その場で博士はサインをしてくれたのである(^_^)。
DANBook
D.A.ノーマン博士の著書カバーと、そのサイン


お返しといってはなんだが、私はExpo自社ブースで販売するために製作したオリジナル腕時計を鞄の中に持っていたのでそれをノーマン博士にプレゼントしようと差し出した。博士はお世辞もなかなかにお上手で「これはAppleグッズの時計よりいいね」といたずらっぽくウィンクしながら受けとってくれた。
しかしそのドナルド・A・ノーマン博士もすでにAppleにいない......。

昨年(2005年)のあるとき、アップルコンピュータ社のY氏とお会いした際「Appleには驚くばかりの優れた技術者が多い」という話をされた。それはAppleという企業の明るい未来を示唆しての発言だった。
確かにそうかも知れないがスティーブ・ジョブズ氏がAppleに戻ってからはご承知のように新製品情報は厳重に封印され、事前に我々の耳に入ってこなくなった。その是非はともかく、結果としてどのような素晴らしい新製品が登場したとしても極論すれば「びっくり箱」を開けた感慨は味わえるもののアラン・ケイやドナルド・A・ノーマン博士が在籍していた時代のように「Appleは何を目指すのか」「Appleのビジョンは何なのか」といった近未来の目指す姿は見えてこない。

かつてAppleはKnowledge Navigatorなどでパーソナルコンピュータの未来を垣間見せるプロモーションにも力を入れていたが昨今はまったく未来のビジョンをアピールすることはない。
創業以来の良い経営状態の今こそAppleはアラン・ケイとかドナルド・A・ノーマン博士のような生産に直接寄与することではなく製品をよりよく未来に導くための人材が必要なのではないだろうか。いまその役割は想像するにスティーブ・ジョブズ氏本人が担っているように見えるが健康問題も含めて次の時代へ橋渡しができる人材がいるのかどうか、余計な心配をしてしまう。
しかし小耳に挟んだところによれば現在のスティーブ・ジョブズは、ひとりの天才より努力のチームワークを重視しているという。そして良くも悪くも現在のApple社成功の鍵は「dream (夢)」ではなく「actuality (現実性)」なのだからビジョンが希薄なのも仕方のないことなのかも知れない。

Home

「ASAhIパソコン」休刊に思う

「アサパソ」の愛称で親しまれてきた朝日新聞社刊のパソコン誌「ASAhIパソコン」が現在店頭に出ている3月15日号(No.399)で休刊だという。創刊から18年になるらしい...。



この最後の号は正直面白い(^_^Winking。いつもの通りの製品レビューなどもあるにはあるが特集を始めとする本誌の多くの紙面は各界著名人たちからの「贈る言葉」であったり休刊をいいことに(笑)アサヒパソコン誌から各メーカーなどに「遺言」として最後っぺ的な逆要望を記している点などなど、通常ではあり得ないユニークで興味深い内容となっている。また反対にメーカーから本誌休刊に対してのコメントをもらっている点も面白い。
ASAHIPASO
2006年3月15日号(No.399)の本誌で休刊を発表した「ASAhIパソコン」表紙


そうしたコメントの中でも光るものは良い意味で批判の目を持ったコメントのように思える。確かに業界の雄であった「ASAhIパソコン」が休刊という事実は「おまえもか!」と気の滅入る出来事であるし詭弁でなく残念だ。しかしこれまで18年にわたる出版に際し編集部を始めとする関係者への暖かい言葉があるのは気持ちが良いが当たり障りのない、型どおりの惜しむ言葉だけで終わるコメントには違和感も残る(^_^Winking
私自身はといえば、超マイクロ企業として会社を興したそのタイムスパンが「ASAhIパソコン」創刊とほぼ一緒であったこともあり大変気になるメディアであったが我々のようなマイクロ企業の動向には鼻も引っかけない印象があり、正直好きになれない雑誌でもあった(笑)。

ともかく記事についての違和感も多々あった。それは本号のジャストシステム社浮川社長のコメントにもつながるが、一部十分な取材をしたとも思えない記事も目立ったように思う。
Windows環境あるいはその業界に関して当時の私は興味の対象外であったから分からないものの、ことMacintoshに関する、あるいはAppleに関する記事のなかには色眼鏡で物事を見ている印象の記事もあり、苦笑しながらも「なんだかなあ...」と思わざるを得ないことも多々あった...。
私自身毎回「ASAhIパソコン」の一部記事に違和感を覚えつつも何故か気になり、ほぼ毎回書店や駅で購入するという斜に構えた付き合いであった(笑)。ああ...疲れた(^_^Winking
そしてエンディングはどうしても型どおりになってしまうが、再開時にはどのような展開を見せてくれるのだろうか?それこそ本当の意味で楽しみである。
ともかく...関係者の皆さん...お疲れ様でした。

Home

スティーブ・ジョブズのプレゼンテーション秘話

1989年7月10日、幕張の東京ベイNKホールは異様な熱気につつまれていた。
Apple Computer社の創業者であり、自らが「生涯砂糖水を売って過ごすのですか...世界を変えてみたいと思いませんか?」と誘ったジョン・スカリーに追放された彼が新しいマシンをたずさえて我々の前に登場したのだ。そのコンピュータの名はNeXT...。



今の私たちはMacWorldExpoの基調講演などで、Apple Computer社CEOであるスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションの妙を知っている。私もサンフランシスコのExpoなどで、彼の基調講演を直接何度も聞いたが確かに話の間の取り方、話題の順序、常に客席を意識した話し方などなど関心することばかりである。
私がスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションを最初経験したのはすでに彼がAppleを辞め、NeXT社が開発したマシン宣伝のために来日したその時が最初だった。
その日、私は噂に聞いていた彼のプレゼンテーションの秘密を見たのだった(^_^)。

1989年7月10日、私は東京ベイ・ヒルトンホテルのロビーに通じる場所で三人連れでこちらに歩いてくるスティーブ・ジョブズとすれちがった。プレゼンを前にした彼はきちんとフォーマルスーツに身を包みながらも噂通りの気むずかしい顔をしていたのが印象的だった。しかしステージにあがった彼のプレゼンは大変見事だった。
壇上にはトラブルを想定し、2セットのNeXTマシンが置かれていたが、開口一番「プレゼンでのトラブルは観客の数とその期待度に正比例します」という彼一流のユーモアで笑わせた後にNeXTマシンの説明に入った。
アメリカ本国と同様に伝説化した有名なプレゼン.....NeXTマシンのサウンドの良さを際立たせるために、NeXTから出力させたバイオリン演奏がいつのまにか壇上に紹介された実際のバイオリニストが演奏するものにすり替えられるというもの.....はこの会場でも拍手喝采だった。
ちなみに現在
このサイトで当時のスティーブ・ジョブズ氏自身によるNeXTSTEPのデモンストレーションが見ることが出来る。その姿は東京ベイNKホールから数年経ってはいるものの、そしてフォーマルスーツではないもののまさしくそのとき見た彼の姿である。
NextSJ

私にとって一番の収穫はスティーブ・ジョブズ氏のカリスマ性の確認とそのプレゼンの巧みさの一端を覗けたことだった。
壇上でスクリーンに映し出されたビジュアルで効果的な映像と共に、彼が熱弁を振るう様はすべてが正しく、そして素晴らしいことなのだと思わせる説得力があった。その説得力やカリスマ性は彼の「自信」と「直感」によるものと感じた反面、先にすれ違った時の緊張した気むずかしい顔を思い出すにつれ、彼は彼なりに寝る間をも惜しんで努力をしているのではないかということにあらためて気づかされた。

ただし、彼のプレゼンや方法論がいつも正しいわけではないことも冷静に観察した。例えばプレゼンの巧みさに通じるテクニックではあるが、当時のNeXTマシンに搭載されていた256MBのOptical Driveは決して速いものではなかった。しかしそれを起動する時、オペラクラスでよく目をこらしていると「起動します!」の言葉より以前に起動のオペレーション、すなわちマウスクリックがなされた時があった!
したがってスクリーン上では、彼が「起動します!」の声と同時にアプリケーションが素早く立ち上がるように見えるのだ。私は「ずるいな」と思う以前に「これは凄い!」と感嘆したことを今でも覚えている。
それから、NeXTのメインボードがフル・オートメーション設備の工場でロボットを使って生産されている様をスクリーンいっぱいに映し出し、NeXT社の優れた品質管理や生産性をアピールした時には会場から拍手が起こった。しかし日本の中小企業でも、当時はすでに生産性向上や合理化そして品質管理をうたい文句にオートメーション技術は取り入れられており、本質的にそれらは珍しいものではなかったはずだ。
面白いのはスティーブ・ジョブズの一挙一動に大変説得力があるため、冷静な判断を妨げてしまうのだ。これこそ彼のカリスマ性の証明だった。

しかしNeXTの魅力的なプレゼン後も私にはそれがMacintoshより魅力のあるものには映らなかった。したがって私はNeXTマシンを欲しいとは思わなかった。当時買うつもりなら手に入れることはできた環境だったが買わなかった事実がそれを物語っている(笑)。
そしてその日、スティーブ・ジョブズが「コンピュータ10年寿命説」という持論を披露し、NeXTが90年代前半の主流になるという説をブチあげたときも納得できなかった。
彼はいま、そのときの自分の言葉をまったく忘れているのだろうか(^_^Winking

まあ我々はずっとAppleの...いや、スティーブ・ジョブズの魔力に振り回されっ放しなのだから今さらの話ではない(笑)。第一昨今のIntelプロセッサに移行するに際し「4倍のスピード。ついに願いは現実に」などと...いけしゃあしゃあのコピーを打っているアップルだが(笑)、つい数年前にはPowerPCが最速・最強であることをイメージさせるためIntelプロセッサをカタツムリの背に乗せたコマーシャルまで作ったくせに...。いまではそんな事実など無かったかのような振る舞いではないか(爆)。
易経には「君主豹変、小人面革」とある。この意味は元来、豹の毛が抜け変わり鮮やかな模様が現れる様に、君主は自らの過ちをはっきりと改めるという事だ。そもそも責任感とか初心貫徹などとこれまでの言動に拘る私たちが小者なのだろうか(笑)。

Home