2 月 2006
私の秋葉原物語「その不思議な街」
2006/02/27 23:39
"AKIHABARA"という街は日本のみならず外国人にもよく知られ、観光で来日した人たちの多くが立ち寄る場所のひとつでもある。事実これだけの広い地域に電気・電器関連店舗がひしめいている街は秋葉原と関西の日本橋の他にはない。
私が頻繁に秋葉原の電気街に寄るようになったのはワンボードマイコンが登場した1977年からのことだ。それ以前にもその存在を知ってはいたものの、一人でこの街を歩き回ることはなかった。なぜならヤマギワ電気などの大型店はあったものの、予備知識がなかったこともあり、ほとんどのお店がいわゆるジャンク品を扱う特殊な店ばかりに映ったからだ。そして事実、ふらりと気軽に入れる店はあまりなかった。
1977年の暮れに10万円をポケットにねじ込み、意を決して入ったところは駅前のラジオ会館だった。その中のとあるショップでワンボードマイコンと専用電源を買ったのだが、そのさまはなにかアメ横か河岸で生鮮食料品でも買ったような新鮮な感覚だったことを今でも覚えている。
そんな感じを受けた原因のひとつは店員さんが、いやに元気で声が大きかったからかも知れない(笑)。
その後、マイコンやパソコンを使い始めることで自然にハンダごてを持つようにもなり、駅のガード下につらなる雑多なお店をも楽しみに回るようになった。そこでは店頭で購入物を選別する際にダイオード、抵抗そしてコンデンサーなどの細かな品を落としたり無くさないようにと小さなプラスチック製のトレーに入れることが購入時のルールだということも知り、いろいろな意味でカルチャーショックを受けたものである。
しかし相変わらず20年前の秋葉原は特殊な街であり、場違いの専門店に入るような一種の気構えが必要だったし、お世辞にも綺麗な街ではなかった。
ところで現在の秋葉原とは東京都千代田区北東端にある一地区、すなわちJRの総武線、山手線、京浜東北線および営団地下鉄日比谷線が乗り継ぐ秋葉原駅を中心とする一帯を指している。
昔...年輩の江戸っ子の中には"アキハバラ"を"アキバハラ"と呼んでいた人たちがけっこういたものだ。
その秋葉原は明治3年(1870年)に秋葉神社(あきばじんじゃ)を祀り、秋葉原(あきばっぱら)といわれたのが地名の由来だそうだから"アキバハラ"という呼び名は間違いではなく、反対にその由来を正確に表していることになる。
しかしいつから"アキハバラ"と呼ぶようになったのだろうか...(^_^
。
この一帯は江戸時代においては下級武士の住居だったそうで、1928年(昭和3年)東北本線の貨物駅に接してあの神田青果市場ができ、第二次世界大戦後には闇市が立ったのをきっかけに、電機製品の問屋・小売店街として発展することになる。特に闇市があった頃には時代を象徴するトラブルや出世物語なども多々あったようだ。
その秋葉原はいまでこそ、店内が明るくそして綺麗な大型店が増え、女性客も安心して買い物ができる環境になったたが当時のショップの多くはガード下や地下だったり、間口が極端に狭く、体を斜めにしながら店内に入らないと積んである段ボールなどにぶつかるような店ばかりだった。そしてまた非合法のコピー製品や得体の知れない製品なども多く、魅力がある反面危ない雰囲気も感じさせる街だった。
ここだけの話だが(笑)Macintosh関連機器のショップとしては老舗でもあったイケショップは当初Apple IIのコピーカードなども扱っていたこともあり一部のユーザー仲間からは「マネショップ」などと陰口を叩かれていたこともある。
さて、一般家電のお店はともかく、パソコンショップに限り現在と違う点をいえば雰囲気はともかく店舗の数と店員さんたちの発する熱気だろうか。
10数年前...秋葉原でもいわゆるアップルマークの看板を掲げているお店を探すのは大変なことだった。それでも例えば九十九電機や亜土電子工業、そしてイケショップなどの各店にはご自身がどっぷりとパソコンやアップルに浸かりきっている熱血店員さんたちが多くいたものだ。
彼らからパソコンの最新情報を教えてもらったり、反対にソフトウェアやハードウェアの実際の使用感を報告したりと本当の意味でのコミュニケーションがあった。そうした店員さんたちの知識の豊富さと自信を持った対応が魅力で多くの時間を客と店員という枠を越え、アップル談義に花を咲かせたものだった。
また先のイケショップでは名物専務さんが店にいる時に遭遇すると品物をだまってレジに持っていくだけで係に「松田さんだ...○%値引きとしきな...」と言ってくれるなど嬉しい対応をしていただくのでついまたその店に足が向いてしまうのだった(^_^)。
当時のお店はそうした名物店員さんや店長さんたちの個性でお店が支えられていた感があったが現在は品揃えもよく、明るく、綺麗な店が揃った反面なかなかそうしたコミュニケーションが結べるショップがないのが残念だと思っている。
そもそもそれ以前に「秋葉原は電気街」という印象だけではなく「萌え系の街」であったり「フィギュアの街」としての変貌も遂げている。そうした変化の是非はともかく駅前の再開発も進み大型電気店も隣接したいま、今一度電気街としての活気を見せて欲しいものである。
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私が頻繁に秋葉原の電気街に寄るようになったのはワンボードマイコンが登場した1977年からのことだ。それ以前にもその存在を知ってはいたものの、一人でこの街を歩き回ることはなかった。なぜならヤマギワ電気などの大型店はあったものの、予備知識がなかったこともあり、ほとんどのお店がいわゆるジャンク品を扱う特殊な店ばかりに映ったからだ。そして事実、ふらりと気軽に入れる店はあまりなかった。
1977年の暮れに10万円をポケットにねじ込み、意を決して入ったところは駅前のラジオ会館だった。その中のとあるショップでワンボードマイコンと専用電源を買ったのだが、そのさまはなにかアメ横か河岸で生鮮食料品でも買ったような新鮮な感覚だったことを今でも覚えている。
そんな感じを受けた原因のひとつは店員さんが、いやに元気で声が大きかったからかも知れない(笑)。
その後、マイコンやパソコンを使い始めることで自然にハンダごてを持つようにもなり、駅のガード下につらなる雑多なお店をも楽しみに回るようになった。そこでは店頭で購入物を選別する際にダイオード、抵抗そしてコンデンサーなどの細かな品を落としたり無くさないようにと小さなプラスチック製のトレーに入れることが購入時のルールだということも知り、いろいろな意味でカルチャーショックを受けたものである。
しかし相変わらず20年前の秋葉原は特殊な街であり、場違いの専門店に入るような一種の気構えが必要だったし、お世辞にも綺麗な街ではなかった。
ところで現在の秋葉原とは東京都千代田区北東端にある一地区、すなわちJRの総武線、山手線、京浜東北線および営団地下鉄日比谷線が乗り継ぐ秋葉原駅を中心とする一帯を指している。
昔...年輩の江戸っ子の中には"アキハバラ"を"アキバハラ"と呼んでいた人たちがけっこういたものだ。
その秋葉原は明治3年(1870年)に秋葉神社(あきばじんじゃ)を祀り、秋葉原(あきばっぱら)といわれたのが地名の由来だそうだから"アキバハラ"という呼び名は間違いではなく、反対にその由来を正確に表していることになる。
しかしいつから"アキハバラ"と呼ぶようになったのだろうか...(^_^
この一帯は江戸時代においては下級武士の住居だったそうで、1928年(昭和3年)東北本線の貨物駅に接してあの神田青果市場ができ、第二次世界大戦後には闇市が立ったのをきっかけに、電機製品の問屋・小売店街として発展することになる。特に闇市があった頃には時代を象徴するトラブルや出世物語なども多々あったようだ。
その秋葉原はいまでこそ、店内が明るくそして綺麗な大型店が増え、女性客も安心して買い物ができる環境になったたが当時のショップの多くはガード下や地下だったり、間口が極端に狭く、体を斜めにしながら店内に入らないと積んである段ボールなどにぶつかるような店ばかりだった。そしてまた非合法のコピー製品や得体の知れない製品なども多く、魅力がある反面危ない雰囲気も感じさせる街だった。
ここだけの話だが(笑)Macintosh関連機器のショップとしては老舗でもあったイケショップは当初Apple IIのコピーカードなども扱っていたこともあり一部のユーザー仲間からは「マネショップ」などと陰口を叩かれていたこともある。
さて、一般家電のお店はともかく、パソコンショップに限り現在と違う点をいえば雰囲気はともかく店舗の数と店員さんたちの発する熱気だろうか。
10数年前...秋葉原でもいわゆるアップルマークの看板を掲げているお店を探すのは大変なことだった。それでも例えば九十九電機や亜土電子工業、そしてイケショップなどの各店にはご自身がどっぷりとパソコンやアップルに浸かりきっている熱血店員さんたちが多くいたものだ。
彼らからパソコンの最新情報を教えてもらったり、反対にソフトウェアやハードウェアの実際の使用感を報告したりと本当の意味でのコミュニケーションがあった。そうした店員さんたちの知識の豊富さと自信を持った対応が魅力で多くの時間を客と店員という枠を越え、アップル談義に花を咲かせたものだった。
また先のイケショップでは名物専務さんが店にいる時に遭遇すると品物をだまってレジに持っていくだけで係に「松田さんだ...○%値引きとしきな...」と言ってくれるなど嬉しい対応をしていただくのでついまたその店に足が向いてしまうのだった(^_^)。
当時のお店はそうした名物店員さんや店長さんたちの個性でお店が支えられていた感があったが現在は品揃えもよく、明るく、綺麗な店が揃った反面なかなかそうしたコミュニケーションが結べるショップがないのが残念だと思っている。
そもそもそれ以前に「秋葉原は電気街」という印象だけではなく「萌え系の街」であったり「フィギュアの街」としての変貌も遂げている。そうした変化の是非はともかく駅前の再開発も進み大型電気店も隣接したいま、今一度電気街としての活気を見せて欲しいものである。
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スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語(改編版)
2006/02/25 20:57
スティーブ・ジョブズがビル・アトキンソンらとゼロックス社パロアルト研究所(PARC)を訪れた際のエピソードはこれまで虚々実々のいわれ方をしてきた。しかし、その一瞬はMacの歴史にとっても最も重要なシーンだったことは間違いない。今回はその日、その時に焦点を当ててみる。
後年WindowsがMacに似すぎていると文句を言ったスティーブ・ジョブズ(以後S.ジョブズ)に対し、Microsoft社のビル・ゲイツが「ゼロックスの家に押し入ってテレビを盗んだのが僕より先だったからといって、それで僕らが後から行ってステレオを盗んだらいけないってことにはならないだろう」と言い放ったという話がある。
この物言いは、Apple Computer社(以後Apple社)のS.ジョブズがPARCに乗り込み、PARC側の意志を無視して文字通り技術を奪い取ったとも受け取れる発言だし、これまで一部のマスコミでも同種の扱いをされてきた感がある。
しかし、この映画の名場面ともなるであろう、その日その時を十分に考察すれば、決して非合法なやりとりがあった訳でもなく、ビル・ゲイツのいい方はあくまで悪たれ口に過ぎず、いたずらにApple社とS.ジョブズの印象を貶めた不適切な物言いである。
事実はひとつしかない。しかし残念ながらその事実も、実際にそこにいた人に聞いてみたところで1979年12月に起こったであろう数時間の出来事は、記憶の問題だけでなく、立場の違う人によってその印象が随分と違っていたところで驚くには値しない。
事実はひとつでも、それぞれの人間にとってはそれぞれの真実が形作られるのであり、人間とはそもそもそんなものなのだ。
ましてや25年も昔になろうとしているその数時間を客観的に描き出すことができるとすれば、それは神しかいないだろう。
しかし矛盾は矛盾として、無理は承知で、私はどうしてもS.ジョブズがPARCでAltoのデモを見た瞬間の様子を知りたいと考えてきた。その一端として今回、限られた資料をもとに、その瞬間を独断で再現してみたいと思う。

そもそも、S.ジョブズがPARCを訪問した月日からして、いくつかの記述は矛盾する。年は1979年に間違いないようだが、斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」のジェフ・ラスキン自身によれば「...ビル・アトキンソンらと画策して、何とか彼(S.ジョブズ)をPARCに行かせたんです。1980年のことです」と発言している。ちなみにジェフ・ラスキンはMacintoshのプロジェクトの生みの親であり "Macintosh "の命名者だったが、後にS.ジョブズは彼を追い出して自身がMacintoshの指揮をとることになる。なおジェフ・ラスキンは残念ながらすでに鬼籍に入ってしまった。
それはともかく、Owen W.Linzmayer著「Apple Confidential」では、S.ジョブズは11月に初めてPARCを訪れ、そして翌月の12月に再訪問したとある。
ポール・クンケル著(大谷和利:訳)「アップル デザイン」を見てみよう。そこには「1979年12月に、Jobsは側近と共にPARCの研究者だった、ラリー・テスラーに会い、内部を案内してもらった」とある。
しかし、Michael Hiltzik著「未来を作った人々」によれば、1度目の訪問は12月であり、2度目はそのたった2日後のことであるという。またPaul Freiberger & Michael Swain著「パソコン革命の英雄たち」では、1度目の訪問はただ単に春と記述されており、2度目の訪問の話題はない。そして「マッキントッシュ伝説」によれば、インタビューに答えたアラン・ケイの話しとして、訪問月の示唆はなく、1度目の後も「アップル社からはその後何度も来た...」とある。
さらに「アラン・ケイ」(鶴岡雄二訳・浜野保樹監修 アスキー出版局刊)の中で浜野保樹氏によれば、「1979年11月、ジョブズがPARCを訪問してアルトに啓示を得、リサを経由してマッキントッシを開発したいきさつは、現代の神話としてあまりにも有名だ」と紹介されている。
またこれらの著書と比較して近刊である「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著/山崎賢治訳(日本評論社刊)には訪問の年は1979年後半とこれまでの情報と同じだが「ゼロックスがアップルの買収を考えてS.ジョブズに接触した」とかなりニュアンスの違う記述があり、かつゼロックスの幹部からPARCを見学するよう頼まれたとある。しかしこれは当時のApple社ならびにS.ジョブズの動向から考えて私は事実とは思えない...。
ともかく訪問の年と月からしてこの調子だから、真実を極めるのはほとんど無理のような気がするが、気を取り直して話を進めよう(笑)。
さて、S.ジョブズがPARCを訪れた時に同行したAppleのスタッフらは誰だったのだろうか。そしてPARC側はどんな人たちがそれに対応したのだろうか。
「Apple Confidential」によれば、初回はビル・アトキンソンを伴って訪問したが、2度目はホーキンス、ロイミュラー、リチャード・ペイジ、ジョン・デニス・コーチ、マイケル・M・スコット(Apple社の社長)、トーマス・M・ホイットニー、ブルース・ダニエルズが一緒だったという。しかしPARC側のスタッフの記述はない。
「未来を作った人々」では、1度目についてS.ジョブズの同行者の記述は無いが、2度目はマイケル・M・スコット、ビル・アトキンソンら10人ほど...とある。またPARC側としては1度目はラリー・テスラー、2度目はハロルド・H・ホール、アデル・ゴールドバーグ、ダイアナ・メリー、ダン・インガルズの名があがっている。
「パソコン革命の英雄たち」には1度目の記述無く、2度目はビル・アトキンソンを連れていったとあるが、PARC側の同席者の名はない。
「マッキントッシュ伝説」のアラン・ケイの話しによれば、Apple社からは4,5人来たと発言し、PARC側のスタッフとしてアラン・ケイ自身は勿論、ラリー・テスラー、ダン・インガルズがその場にいたと証言している。
アラン・ケイは当時、PARCのスタッフとしてAltoにたずさわっていたから、同席していたとしても不思議ではなく、そのほうが自然だ。そして前記したように本人も「その場にいた」と発言しているが、他の資料には重要人物であったはずのアラン・ケイの名がないのもこれまた不思議である。

※1989年MacWorld Expo/BostonにおいてKeynote Sessionを行うアラン・ケイ
もともとS.ジョブズにPARC訪問を勧めたのはジェフ・ラスキンだったようだが、当時のS.ジョブズはラスキンを嫌っており、彼の申し出を意に介さなかったようだ。しかしジェフ・ラスキンはその重要性を感じ、友人のビル・アトキンソンをジョブズの説得にあたらせたというのが真相のようである。ちなみにジェフ・ラスキンはビル・アトキンソンが以前通っていたサンディエゴの大学の先生だったという。
またS.ジョブズらのPARC訪問は偶然であったり、行き当たりばったりであったわけではない。開放的であったといわれているPARCにしても、だれでもが入り込んで勝手にAltoのオペレーションを見ることができるわけではなかった。
実はS.ジョブズ訪問の8ヶ月ほど前、すなわち1979年4月にさかのぼるが、この時代最高の前評判でまもなく上場することになっていたApple社には多くの投資家が資本参加を望んでいた。ゼロックス社もそのひとつだった。それを知ったS.ジョブズは資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたいと申し出たという。しかし常識的・合理的に考えれば、当時のS.ジョブズがゼロックス社の具体的なテクノロジーに興味を示していたという証拠はなく、その可能性も低いと思われる。
なぜなら当時、大企業を嫌っていたという彼は「ゼロックスみたいな大企業には何も面白いことはできない」と発言していたという(「未来を作った人々」)。だから1度目は、S.ジョブズ自身、具体的な何かを期待してPARCを訪問したのではないと考えることもあながち無理ではないだろう。そしてもし、具体的にAltoやそのSmalltalkの情報を得たければ、方法は他にいくらでもあっただろう。彼の立場からすれば、ストレートに知りたいことを要求することも可能だったと考えられる。
しかし2度目の訪問はあきらかにS.ジョブズが1回目の訪問で刺激を受けたことによる。
ともかく、S.ジョブズたちに何をどの程度見せるかという決定権はPARCにはなかったという。そしてゼロックス本社から「見せろ」という決定が下ったのだから、S.ジョブズたちは間違いなく正式にPARCの門をくぐったのである。
ちなみに、S.ジョブズたちが最初にPARCで観たであろうSmalltalkシステムの一部映像と後述するPARCのアデル・ゴールドバーグ女史の姿を見ることができる。映像の最後の方にApple IIの一部が映ることでこれまたMac以前の映像だろうと推察できるがそれに気がつかない人には「マックみたいだ」と思うかも知れない(笑)。なにしろ1979年にここまで完成していたSmalltalkシステムには驚愕させられる。
Smalltalk-80 - Google Video
ただ知っておかなければならないこととして、「未来を作った人々」によれば、PARCのSmalltalkのデモには2つのバージョンがあったという。特に審査に通ったVIP向けのものと一般に見せるものとである。
明らかに1度目は、誰にも見せる式の、いわゆる無害なデモを行った。しかしS.ジョブズは、そのとき自分たちに与えられなかった情報がどれだけあるのかを悟ったらしい。だから「未来を作った人々」いうところの、たった2日後に再び大人数を連れてPARCに再度出向いたのだ。
しかし、「未来を作った人々」によれば、当時PARCの学習研究グループ(LRG〜アラン・ケイが責任者)所属でSmalltalk共同開発者の一人でもあり、デモを担当していたアデル・ゴールドバーグは2度目のS.ジョブズらの来訪を激怒したという。
彼女はいう。「来てみれば.....予告もなしで。2日後にですよ。しかもハロルド・ホールとロイ・ラーが廊下に現れて、私が2回目のデモをすることになってるって言うんです」。
当初アデル・ゴールドバーグと仲間たちは、前回同様に害のないデモを見せてS.ジョブズたちを追い返そうと考えたらしい。アデル・ゴールドバーグはApple社の能力と意図を知るよしもなかったが、技術者の本能と自身らが開発し育てたSmalltalkの重要さと大切さを知っており、特にプログラマーにそれらを見せるリスクを恐れていた。彼女は何とかしてゼロックス社自身にAltoとSmalltalkを正当に評価させ、これを世に出したいと考えていたらしい。
だが、事はアデル・ゴールドバーグたちの思惑通りにはいかなかった。なぜならゼロックス社から「ジョブズが望むものはすべて見せろ」「ジョブズ氏に機密ブリーフィングを実行せよ」という電話が入ったからだ(「未来を作った人々」)。
私はここで想像する。もし、私がS.ジョブズだったらどうするか...。
1回目のデモを見たS.ジョブズは彼の鋭い直感で、自分に見せられたもの以外に多くの隠された "何か" が存在することを知ったのではないだろうか。もしかしたらS.ジョブズは8ヶ月前にゼロックス社に取り付けた「資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたい」という約束の実行を来訪直前にゼロックス社へ迫ったのではないだろうか。私ならそうする...。
ともかく、本社側の命令は守らなければならない。マネージャーであるハロルド・ホールはデモチームに、S.ジョブズと部下のエンジニアたちが正式な扱いを受けるよう指示するしかなかった。
「未来を作った人々」によれば、アデル・ゴールドバーグはそれを聞いて、激怒のあまり目に涙をうかべ、ハロルド・ホールらに喰ってかかったという。デモを拒否し、大立ち回りの末に彼女は上司の命令だからと、まだ真っ赤な顔をしたままSmalltalkの入ったディスクバッグを持ち、S.ジョブズたちの前に現れた。
確かにアデル・ゴールドバーグの危惧していたことは確かとなった。天才プログラマーとして名を残すことになったビル・アトキンソンらの集中した様子は、彼女をますます不安にした。
「未来を作った人々」にはPARC側のラリー・テスラーの言葉として、同行したビル・アトキンソンは明らかに十分な予習をしていたという。事実、後になってから分かったこととして、ビル・アトキンソンはPARCが出版した論文をすべて読んでいたという。そして「我々の持つものをゼロックス社よりはるかに良く理解していることは明らかだった」と回想している。
また「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...しかし、アルトのアイデアはジョブズがアルトを見る以前から公開されていた。ゼロックス社の顧問弁護士が心配したように、1977年にケイが発表した論文にすべてが書き込まれていたのだ...」と書いている。
なお「マッキントッシュ伝説」によるビル・アトキンソン本人の話しによれば、AltoでなされたSmalltalkによるワードプロセッサのデモを見て「すごく興奮した」と証言しているものの、それはまったく意外なものを見たからではなく、「...われわれの方向性が間違っていないとわかったからです。.....ですからAltoを見たとき、われわれがやっていることは間違っていないんだというふうに思いましたし、これは絶対にできるというような感触を覚えたのです」と話している。
「未来を作った人々」には同じくビル・アトキンソンの話として、後年このPARC訪問なくしてLisaは生まれなかったといわれるのを嫌い、「後知恵でいえば、行かないほうがよかったくらいだ」といい、続けて「われわれはオリジナルの研究をずっとたくさんやっていたんですよ」と結んでいる。さもありなんと思う。
しかし、2度目のVIP待遇のデモにはビル・アトキンソンはじめ、S.ジョブズも度肝を抜かれたというエピソードはこれまた有名だ。有名な話しではあるが、ここでもイマイチその内容がはっきりしない。
Altoの画面上のテキストが1行ごとにスクロールするのを見たS.ジョブズが(「マッキントッシュ伝説」では、アップル社のひとりが...とされている)、「これがスムーズにドットごとに紙みたいに動いたらいいが...」(「未来を作った人々」)といったとされる。また「(Apple側が)テキスト処理をビデオのように逆に進められるかと挑んできました」(「マッキントッシュ伝説」でアラン・ケイの話しとして)という少しニュアンスが違う証言もあるが、ともかくApple社側のその場の思い付きの要望を、デモをしていたダン・インガルズが「ちちんぷいぷい(「未来を作った人々」)」、「Altoを止めずに約25秒で(「マッキントッシュ伝説」)」実際にそれをやってのけたという。
これにはS.ジョブズも驚き、「この会社はなんでこいつを発売していないんだ?!何が起きているんだ?わからん!」なんて叫んだという(「未来を作った人々」)。また「マッキントッシュ伝説」によるアラン・ケイの話しによれば、S.ジョブズはAltoを一台正式に購入したいと要望したが、ゼロックス社はそれを拒否した。
※1993年7月30日、大阪の富士ゼロックス社において参考出品されたAltoと筆者
S.ジョブズはPARCでデモを見た印象を「...理性のある人なら、すべてのコンピュータがやがてこうなることがわかるはずだ」と発言したという。ただし同時にS.ジョブズは後年いわゆるそのGUIに目を奪われ、オブジェクト指向プログラミングとEthernetでつながった電子メールの重要性に気が回らなかったと反省している(「アップル デザイン」)。
その後、Apple社はLisaにPARCで体験して得たパーソナルコンピュータの理想を託そうとしたが、現実はAltoおよびSmalltalkのすべてがLisaに渡ったわけではない。いわゆるルック・アンド・フィール、すなわちインターフェースの基本的外見と一部の機能がLisaで実現されたことは確かだが、反面メニューバー、プルダウンメニュー、1ボタン・マウス、クリップボードを使ったカット&ペースト、そしてゴミ箱などはApple社自身のいわゆるオリジナルなアイデアだった。
しかし「未来を作った人々」によれば、PARCがLisaとMacintoshの設計者たちに及ぼした影響で最も重要なのは、おそらく精神的なものであり、訪問後にLisaの設計者たちが出した設計要綱は、アラン・ケイやラリー・テスラーの精神の完全な開花と言えた。何しろそこには「Lisaは使って楽しくなければならない」と命じているという。
続けて「このシステムは『仕事だから』とか『上司がやれというから』使うようなシステムにはしない。Lisaを使うことそのものが報酬となって、仕事が充実するよう、ユーザーとの相互作用における友好性と機微には特に注意を払わなければならない」とあるという。この感覚と思いは、われわれMacintoshユーザーが最初期からずっと感じてきたものであり、そのことはそれまで...あるいはその後も他社製のパーソナルコンピュータと一番違う点である。
それから、Altoは商用として販売されていたマシンではなく、これまたよくいわれることだが結果としてゼロックス社はその研究結果および資産を有効に活用しなかった。しかし後になってStarなどのワークステーションに活かされる部分もあったのだから、まったく顧みられなかったというわけではないものの、積極的に製品化するという行動に出なかったことは歴史が証明している。ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダーは著書「取り逃がした未来〜世界初のパソコン発明をふいにしたゼロックスの物語」の中でなぜゼロックスは発明を事業として成功させることができなかったのかを説いている...。
事実、ラリー・テスラーらはS.ジョブズらが驚愕して賞賛を惜しまなかったAltoおよびSmalltalkの開発責任者として、評価されたことを大いに喜んだという。特に2度目のPARC担当者らのデモは行きがかりはどうあれ、デモをしたPARC側の人間もApple側の反応の良さと的確な質問に真の理解者を得たと思ったようだ...。
確かに当初PARC側の彼らは、規模も歴史も、そして経験も自分たちのそれとは違う小さなApple社を軽く見ていたようだが、無関心なゼロックス社とはまったく違うS.ジョブズたちの狂的な熱心さに、自身たちの価値観を再発見したのであろう。そしてその日の出来事はラリー・テスラーらPARC側の人間の運命をも変えることになった。なぜなら後にラリー・テスラーをはじめ、アラン・ケイ、スティーブ・キャプスら15人以上のPARC従業員がApple社に移ることになったからだ。
論理的に考えて、このときPARC側、すなわちデモをしたラリー・テスラーや同席したというアラン・ケイらがS.ジョブズおよびApple社に対して、不愉快な思いをしたならば、後にApple社に移ることも無かったかも知れないと思う。
「AppleはPARCのテクノロジーを盗んだ」といった興味本位の話が広がっているが、PARCはこれまでにも研究を進める資金を提供し、支援する気のある正当な顧客に対しては、喜んでSmalltalkのデモをしていた。ましてや前記したように、PARCのApple社への待遇は、結果としてゼロックス社からの正式な承認を受けたものだったことを忘れてはならない。
「アラン・ケイ」の浜野保樹氏による「評伝アラン・ケイ」にも「ケイは、アルトについて論文を発表しようとするたびに、ゼロックス社の顧問弁護士に出版をとりやめさせられた。しかし、デモンストレーションについては、不思議なくらい寛容だった。大量の視察団がPARCを訪問し、アルトを見た。1975年だけでも2,000人の訪問者がアルトのデモを見たが、正しくアルトを理解する者はいなかった。」と綴っている。
多くの人がAltoとそのデモを見たが、歴史が示すようにApple社のS.ジョブズたち以外、それらを現実のビジネスとして形作ろうと考えた人間はいなかったのだ。そこに大いなる宝が転がっていることに誰も気がつかなかったのだ。
かつてS.ジョブズは友人のスティーブ・ウォズニアックが手作りしたコンピュータを見て、直感的にビジネスになると考え、ウォズニアックを説得したからこそApple IIが誕生し、Apple Computer社が存在することになった。
「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...ガレージでApple IIを完成させた。あのときと同じことが起こった。ジョブズは、埋もれてしまったであろう優れた技術を、二度もビジネスにつなげたのである。」と記している。まさしく、S.ジョブズなくしてはAltoで培われた多くのアイデアをパーソナルコンピュータに託すことはできなかった。そしてLisaやMacintoshを「Altoの猿まね」と称する人々もいるが前記したように文字通りそれらは単なる猿まねではなく時代が求めたAppleのオリジナリティを多く含むテクノロジーの継承であった。
歴史に if はタブーだというが、もしS.ジョブズらのPARC訪問がなければMacintoshはいまの形では存在しないことは勿論、いかに優れて時代を先取りしていたAltoあるいはSmalltalkシステムだとしてもこれまた現在のような評価を受けていたとは思えない。
したがって冒頭のビル・ゲイツの発言がいかに不当なものであることは分かるだろう。
S.ジョブズ、ビル・アトキンソンらそれぞれが、PARCのデモから受けた印象と思いは違うだろう。しかしそこで触発された衝撃はLisaやMacintoshの開発過程における大きな確信となったことは間違いない。
いずれにせよ、Lisaはビジネスとして失敗したが、そのDNAはMacintoshで開花した。ビル・ゲイツには悪いが、Macintoshの成功なくしてWindowsの今はあり得ないし、百歩譲ったとしても現在のインターフェースにたどり着くにはさらに大変な時間が必要となったに違いない。
「マッキントッシュその赤裸々な真実」(Scott Kelby著、大谷和利訳)には逆説的なこんな言葉が載っている。
「Windowsマシンがイカして見えたらApple社に感謝しな!」と。
【参考資料】
・「未来を作った人々」Michael Hiltzik著、鴨澤眞夫訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「Apple Confidential」Owen W.Linzmayer著、林信行・柴田文彦訳(アスキー出版局刊)
・「マッキントッシュ伝説」斎藤由多加著(アスキー出版局刊)
・「パソコン革命の英雄たち」Paul Freiberger & Michael Swain著、大田一雄訳(マグロウヒル刊)
・「マッキントッシュその赤裸々な真実」Scott Kelby著、大谷和利訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「アラン・ケイ」鶴岡雄二訳・浜野保樹監修(アスキー出版局刊)
・「アップル デザイン」ポール・クンケル著、リック・イングリッシュ写真、大谷和利訳(アクシスパブリッシング刊)
・「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著/山崎賢治訳(日本評論社刊)
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後年WindowsがMacに似すぎていると文句を言ったスティーブ・ジョブズ(以後S.ジョブズ)に対し、Microsoft社のビル・ゲイツが「ゼロックスの家に押し入ってテレビを盗んだのが僕より先だったからといって、それで僕らが後から行ってステレオを盗んだらいけないってことにはならないだろう」と言い放ったという話がある。
この物言いは、Apple Computer社(以後Apple社)のS.ジョブズがPARCに乗り込み、PARC側の意志を無視して文字通り技術を奪い取ったとも受け取れる発言だし、これまで一部のマスコミでも同種の扱いをされてきた感がある。
しかし、この映画の名場面ともなるであろう、その日その時を十分に考察すれば、決して非合法なやりとりがあった訳でもなく、ビル・ゲイツのいい方はあくまで悪たれ口に過ぎず、いたずらにApple社とS.ジョブズの印象を貶めた不適切な物言いである。
事実はひとつしかない。しかし残念ながらその事実も、実際にそこにいた人に聞いてみたところで1979年12月に起こったであろう数時間の出来事は、記憶の問題だけでなく、立場の違う人によってその印象が随分と違っていたところで驚くには値しない。
事実はひとつでも、それぞれの人間にとってはそれぞれの真実が形作られるのであり、人間とはそもそもそんなものなのだ。
ましてや25年も昔になろうとしているその数時間を客観的に描き出すことができるとすれば、それは神しかいないだろう。
しかし矛盾は矛盾として、無理は承知で、私はどうしてもS.ジョブズがPARCでAltoのデモを見た瞬間の様子を知りたいと考えてきた。その一端として今回、限られた資料をもとに、その瞬間を独断で再現してみたいと思う。

そもそも、S.ジョブズがPARCを訪問した月日からして、いくつかの記述は矛盾する。年は1979年に間違いないようだが、斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」のジェフ・ラスキン自身によれば「...ビル・アトキンソンらと画策して、何とか彼(S.ジョブズ)をPARCに行かせたんです。1980年のことです」と発言している。ちなみにジェフ・ラスキンはMacintoshのプロジェクトの生みの親であり "Macintosh "の命名者だったが、後にS.ジョブズは彼を追い出して自身がMacintoshの指揮をとることになる。なおジェフ・ラスキンは残念ながらすでに鬼籍に入ってしまった。
それはともかく、Owen W.Linzmayer著「Apple Confidential」では、S.ジョブズは11月に初めてPARCを訪れ、そして翌月の12月に再訪問したとある。
ポール・クンケル著(大谷和利:訳)「アップル デザイン」を見てみよう。そこには「1979年12月に、Jobsは側近と共にPARCの研究者だった、ラリー・テスラーに会い、内部を案内してもらった」とある。
しかし、Michael Hiltzik著「未来を作った人々」によれば、1度目の訪問は12月であり、2度目はそのたった2日後のことであるという。またPaul Freiberger & Michael Swain著「パソコン革命の英雄たち」では、1度目の訪問はただ単に春と記述されており、2度目の訪問の話題はない。そして「マッキントッシュ伝説」によれば、インタビューに答えたアラン・ケイの話しとして、訪問月の示唆はなく、1度目の後も「アップル社からはその後何度も来た...」とある。
さらに「アラン・ケイ」(鶴岡雄二訳・浜野保樹監修 アスキー出版局刊)の中で浜野保樹氏によれば、「1979年11月、ジョブズがPARCを訪問してアルトに啓示を得、リサを経由してマッキントッシを開発したいきさつは、現代の神話としてあまりにも有名だ」と紹介されている。
またこれらの著書と比較して近刊である「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著/山崎賢治訳(日本評論社刊)には訪問の年は1979年後半とこれまでの情報と同じだが「ゼロックスがアップルの買収を考えてS.ジョブズに接触した」とかなりニュアンスの違う記述があり、かつゼロックスの幹部からPARCを見学するよう頼まれたとある。しかしこれは当時のApple社ならびにS.ジョブズの動向から考えて私は事実とは思えない...。
ともかく訪問の年と月からしてこの調子だから、真実を極めるのはほとんど無理のような気がするが、気を取り直して話を進めよう(笑)。
さて、S.ジョブズがPARCを訪れた時に同行したAppleのスタッフらは誰だったのだろうか。そしてPARC側はどんな人たちがそれに対応したのだろうか。
「Apple Confidential」によれば、初回はビル・アトキンソンを伴って訪問したが、2度目はホーキンス、ロイミュラー、リチャード・ペイジ、ジョン・デニス・コーチ、マイケル・M・スコット(Apple社の社長)、トーマス・M・ホイットニー、ブルース・ダニエルズが一緒だったという。しかしPARC側のスタッフの記述はない。
「未来を作った人々」では、1度目についてS.ジョブズの同行者の記述は無いが、2度目はマイケル・M・スコット、ビル・アトキンソンら10人ほど...とある。またPARC側としては1度目はラリー・テスラー、2度目はハロルド・H・ホール、アデル・ゴールドバーグ、ダイアナ・メリー、ダン・インガルズの名があがっている。
「パソコン革命の英雄たち」には1度目の記述無く、2度目はビル・アトキンソンを連れていったとあるが、PARC側の同席者の名はない。
「マッキントッシュ伝説」のアラン・ケイの話しによれば、Apple社からは4,5人来たと発言し、PARC側のスタッフとしてアラン・ケイ自身は勿論、ラリー・テスラー、ダン・インガルズがその場にいたと証言している。
アラン・ケイは当時、PARCのスタッフとしてAltoにたずさわっていたから、同席していたとしても不思議ではなく、そのほうが自然だ。そして前記したように本人も「その場にいた」と発言しているが、他の資料には重要人物であったはずのアラン・ケイの名がないのもこれまた不思議である。

※1989年MacWorld Expo/BostonにおいてKeynote Sessionを行うアラン・ケイ
もともとS.ジョブズにPARC訪問を勧めたのはジェフ・ラスキンだったようだが、当時のS.ジョブズはラスキンを嫌っており、彼の申し出を意に介さなかったようだ。しかしジェフ・ラスキンはその重要性を感じ、友人のビル・アトキンソンをジョブズの説得にあたらせたというのが真相のようである。ちなみにジェフ・ラスキンはビル・アトキンソンが以前通っていたサンディエゴの大学の先生だったという。
またS.ジョブズらのPARC訪問は偶然であったり、行き当たりばったりであったわけではない。開放的であったといわれているPARCにしても、だれでもが入り込んで勝手にAltoのオペレーションを見ることができるわけではなかった。
実はS.ジョブズ訪問の8ヶ月ほど前、すなわち1979年4月にさかのぼるが、この時代最高の前評判でまもなく上場することになっていたApple社には多くの投資家が資本参加を望んでいた。ゼロックス社もそのひとつだった。それを知ったS.ジョブズは資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたいと申し出たという。しかし常識的・合理的に考えれば、当時のS.ジョブズがゼロックス社の具体的なテクノロジーに興味を示していたという証拠はなく、その可能性も低いと思われる。
なぜなら当時、大企業を嫌っていたという彼は「ゼロックスみたいな大企業には何も面白いことはできない」と発言していたという(「未来を作った人々」)。だから1度目は、S.ジョブズ自身、具体的な何かを期待してPARCを訪問したのではないと考えることもあながち無理ではないだろう。そしてもし、具体的にAltoやそのSmalltalkの情報を得たければ、方法は他にいくらでもあっただろう。彼の立場からすれば、ストレートに知りたいことを要求することも可能だったと考えられる。
しかし2度目の訪問はあきらかにS.ジョブズが1回目の訪問で刺激を受けたことによる。
ともかく、S.ジョブズたちに何をどの程度見せるかという決定権はPARCにはなかったという。そしてゼロックス本社から「見せろ」という決定が下ったのだから、S.ジョブズたちは間違いなく正式にPARCの門をくぐったのである。
ちなみに、S.ジョブズたちが最初にPARCで観たであろうSmalltalkシステムの一部映像と後述するPARCのアデル・ゴールドバーグ女史の姿を見ることができる。映像の最後の方にApple IIの一部が映ることでこれまたMac以前の映像だろうと推察できるがそれに気がつかない人には「マックみたいだ」と思うかも知れない(笑)。なにしろ1979年にここまで完成していたSmalltalkシステムには驚愕させられる。
Smalltalk-80 - Google Video
ただ知っておかなければならないこととして、「未来を作った人々」によれば、PARCのSmalltalkのデモには2つのバージョンがあったという。特に審査に通ったVIP向けのものと一般に見せるものとである。
明らかに1度目は、誰にも見せる式の、いわゆる無害なデモを行った。しかしS.ジョブズは、そのとき自分たちに与えられなかった情報がどれだけあるのかを悟ったらしい。だから「未来を作った人々」いうところの、たった2日後に再び大人数を連れてPARCに再度出向いたのだ。
しかし、「未来を作った人々」によれば、当時PARCの学習研究グループ(LRG〜アラン・ケイが責任者)所属でSmalltalk共同開発者の一人でもあり、デモを担当していたアデル・ゴールドバーグは2度目のS.ジョブズらの来訪を激怒したという。
彼女はいう。「来てみれば.....予告もなしで。2日後にですよ。しかもハロルド・ホールとロイ・ラーが廊下に現れて、私が2回目のデモをすることになってるって言うんです」。
当初アデル・ゴールドバーグと仲間たちは、前回同様に害のないデモを見せてS.ジョブズたちを追い返そうと考えたらしい。アデル・ゴールドバーグはApple社の能力と意図を知るよしもなかったが、技術者の本能と自身らが開発し育てたSmalltalkの重要さと大切さを知っており、特にプログラマーにそれらを見せるリスクを恐れていた。彼女は何とかしてゼロックス社自身にAltoとSmalltalkを正当に評価させ、これを世に出したいと考えていたらしい。
だが、事はアデル・ゴールドバーグたちの思惑通りにはいかなかった。なぜならゼロックス社から「ジョブズが望むものはすべて見せろ」「ジョブズ氏に機密ブリーフィングを実行せよ」という電話が入ったからだ(「未来を作った人々」)。
私はここで想像する。もし、私がS.ジョブズだったらどうするか...。
1回目のデモを見たS.ジョブズは彼の鋭い直感で、自分に見せられたもの以外に多くの隠された "何か" が存在することを知ったのではないだろうか。もしかしたらS.ジョブズは8ヶ月前にゼロックス社に取り付けた「資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたい」という約束の実行を来訪直前にゼロックス社へ迫ったのではないだろうか。私ならそうする...。
ともかく、本社側の命令は守らなければならない。マネージャーであるハロルド・ホールはデモチームに、S.ジョブズと部下のエンジニアたちが正式な扱いを受けるよう指示するしかなかった。
「未来を作った人々」によれば、アデル・ゴールドバーグはそれを聞いて、激怒のあまり目に涙をうかべ、ハロルド・ホールらに喰ってかかったという。デモを拒否し、大立ち回りの末に彼女は上司の命令だからと、まだ真っ赤な顔をしたままSmalltalkの入ったディスクバッグを持ち、S.ジョブズたちの前に現れた。
確かにアデル・ゴールドバーグの危惧していたことは確かとなった。天才プログラマーとして名を残すことになったビル・アトキンソンらの集中した様子は、彼女をますます不安にした。
「未来を作った人々」にはPARC側のラリー・テスラーの言葉として、同行したビル・アトキンソンは明らかに十分な予習をしていたという。事実、後になってから分かったこととして、ビル・アトキンソンはPARCが出版した論文をすべて読んでいたという。そして「我々の持つものをゼロックス社よりはるかに良く理解していることは明らかだった」と回想している。
また「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...しかし、アルトのアイデアはジョブズがアルトを見る以前から公開されていた。ゼロックス社の顧問弁護士が心配したように、1977年にケイが発表した論文にすべてが書き込まれていたのだ...」と書いている。
なお「マッキントッシュ伝説」によるビル・アトキンソン本人の話しによれば、AltoでなされたSmalltalkによるワードプロセッサのデモを見て「すごく興奮した」と証言しているものの、それはまったく意外なものを見たからではなく、「...われわれの方向性が間違っていないとわかったからです。.....ですからAltoを見たとき、われわれがやっていることは間違っていないんだというふうに思いましたし、これは絶対にできるというような感触を覚えたのです」と話している。
「未来を作った人々」には同じくビル・アトキンソンの話として、後年このPARC訪問なくしてLisaは生まれなかったといわれるのを嫌い、「後知恵でいえば、行かないほうがよかったくらいだ」といい、続けて「われわれはオリジナルの研究をずっとたくさんやっていたんですよ」と結んでいる。さもありなんと思う。
しかし、2度目のVIP待遇のデモにはビル・アトキンソンはじめ、S.ジョブズも度肝を抜かれたというエピソードはこれまた有名だ。有名な話しではあるが、ここでもイマイチその内容がはっきりしない。
Altoの画面上のテキストが1行ごとにスクロールするのを見たS.ジョブズが(「マッキントッシュ伝説」では、アップル社のひとりが...とされている)、「これがスムーズにドットごとに紙みたいに動いたらいいが...」(「未来を作った人々」)といったとされる。また「(Apple側が)テキスト処理をビデオのように逆に進められるかと挑んできました」(「マッキントッシュ伝説」でアラン・ケイの話しとして)という少しニュアンスが違う証言もあるが、ともかくApple社側のその場の思い付きの要望を、デモをしていたダン・インガルズが「ちちんぷいぷい(「未来を作った人々」)」、「Altoを止めずに約25秒で(「マッキントッシュ伝説」)」実際にそれをやってのけたという。
これにはS.ジョブズも驚き、「この会社はなんでこいつを発売していないんだ?!何が起きているんだ?わからん!」なんて叫んだという(「未来を作った人々」)。また「マッキントッシュ伝説」によるアラン・ケイの話しによれば、S.ジョブズはAltoを一台正式に購入したいと要望したが、ゼロックス社はそれを拒否した。
※1993年7月30日、大阪の富士ゼロックス社において参考出品されたAltoと筆者
S.ジョブズはPARCでデモを見た印象を「...理性のある人なら、すべてのコンピュータがやがてこうなることがわかるはずだ」と発言したという。ただし同時にS.ジョブズは後年いわゆるそのGUIに目を奪われ、オブジェクト指向プログラミングとEthernetでつながった電子メールの重要性に気が回らなかったと反省している(「アップル デザイン」)。
その後、Apple社はLisaにPARCで体験して得たパーソナルコンピュータの理想を託そうとしたが、現実はAltoおよびSmalltalkのすべてがLisaに渡ったわけではない。いわゆるルック・アンド・フィール、すなわちインターフェースの基本的外見と一部の機能がLisaで実現されたことは確かだが、反面メニューバー、プルダウンメニュー、1ボタン・マウス、クリップボードを使ったカット&ペースト、そしてゴミ箱などはApple社自身のいわゆるオリジナルなアイデアだった。
しかし「未来を作った人々」によれば、PARCがLisaとMacintoshの設計者たちに及ぼした影響で最も重要なのは、おそらく精神的なものであり、訪問後にLisaの設計者たちが出した設計要綱は、アラン・ケイやラリー・テスラーの精神の完全な開花と言えた。何しろそこには「Lisaは使って楽しくなければならない」と命じているという。
続けて「このシステムは『仕事だから』とか『上司がやれというから』使うようなシステムにはしない。Lisaを使うことそのものが報酬となって、仕事が充実するよう、ユーザーとの相互作用における友好性と機微には特に注意を払わなければならない」とあるという。この感覚と思いは、われわれMacintoshユーザーが最初期からずっと感じてきたものであり、そのことはそれまで...あるいはその後も他社製のパーソナルコンピュータと一番違う点である。
それから、Altoは商用として販売されていたマシンではなく、これまたよくいわれることだが結果としてゼロックス社はその研究結果および資産を有効に活用しなかった。しかし後になってStarなどのワークステーションに活かされる部分もあったのだから、まったく顧みられなかったというわけではないものの、積極的に製品化するという行動に出なかったことは歴史が証明している。ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダーは著書「取り逃がした未来〜世界初のパソコン発明をふいにしたゼロックスの物語」の中でなぜゼロックスは発明を事業として成功させることができなかったのかを説いている...。
事実、ラリー・テスラーらはS.ジョブズらが驚愕して賞賛を惜しまなかったAltoおよびSmalltalkの開発責任者として、評価されたことを大いに喜んだという。特に2度目のPARC担当者らのデモは行きがかりはどうあれ、デモをしたPARC側の人間もApple側の反応の良さと的確な質問に真の理解者を得たと思ったようだ...。
確かに当初PARC側の彼らは、規模も歴史も、そして経験も自分たちのそれとは違う小さなApple社を軽く見ていたようだが、無関心なゼロックス社とはまったく違うS.ジョブズたちの狂的な熱心さに、自身たちの価値観を再発見したのであろう。そしてその日の出来事はラリー・テスラーらPARC側の人間の運命をも変えることになった。なぜなら後にラリー・テスラーをはじめ、アラン・ケイ、スティーブ・キャプスら15人以上のPARC従業員がApple社に移ることになったからだ。
論理的に考えて、このときPARC側、すなわちデモをしたラリー・テスラーや同席したというアラン・ケイらがS.ジョブズおよびApple社に対して、不愉快な思いをしたならば、後にApple社に移ることも無かったかも知れないと思う。
「AppleはPARCのテクノロジーを盗んだ」といった興味本位の話が広がっているが、PARCはこれまでにも研究を進める資金を提供し、支援する気のある正当な顧客に対しては、喜んでSmalltalkのデモをしていた。ましてや前記したように、PARCのApple社への待遇は、結果としてゼロックス社からの正式な承認を受けたものだったことを忘れてはならない。
「アラン・ケイ」の浜野保樹氏による「評伝アラン・ケイ」にも「ケイは、アルトについて論文を発表しようとするたびに、ゼロックス社の顧問弁護士に出版をとりやめさせられた。しかし、デモンストレーションについては、不思議なくらい寛容だった。大量の視察団がPARCを訪問し、アルトを見た。1975年だけでも2,000人の訪問者がアルトのデモを見たが、正しくアルトを理解する者はいなかった。」と綴っている。
多くの人がAltoとそのデモを見たが、歴史が示すようにApple社のS.ジョブズたち以外、それらを現実のビジネスとして形作ろうと考えた人間はいなかったのだ。そこに大いなる宝が転がっていることに誰も気がつかなかったのだ。
かつてS.ジョブズは友人のスティーブ・ウォズニアックが手作りしたコンピュータを見て、直感的にビジネスになると考え、ウォズニアックを説得したからこそApple IIが誕生し、Apple Computer社が存在することになった。
「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...ガレージでApple IIを完成させた。あのときと同じことが起こった。ジョブズは、埋もれてしまったであろう優れた技術を、二度もビジネスにつなげたのである。」と記している。まさしく、S.ジョブズなくしてはAltoで培われた多くのアイデアをパーソナルコンピュータに託すことはできなかった。そしてLisaやMacintoshを「Altoの猿まね」と称する人々もいるが前記したように文字通りそれらは単なる猿まねではなく時代が求めたAppleのオリジナリティを多く含むテクノロジーの継承であった。
歴史に if はタブーだというが、もしS.ジョブズらのPARC訪問がなければMacintoshはいまの形では存在しないことは勿論、いかに優れて時代を先取りしていたAltoあるいはSmalltalkシステムだとしてもこれまた現在のような評価を受けていたとは思えない。
したがって冒頭のビル・ゲイツの発言がいかに不当なものであることは分かるだろう。
S.ジョブズ、ビル・アトキンソンらそれぞれが、PARCのデモから受けた印象と思いは違うだろう。しかしそこで触発された衝撃はLisaやMacintoshの開発過程における大きな確信となったことは間違いない。
いずれにせよ、Lisaはビジネスとして失敗したが、そのDNAはMacintoshで開花した。ビル・ゲイツには悪いが、Macintoshの成功なくしてWindowsの今はあり得ないし、百歩譲ったとしても現在のインターフェースにたどり着くにはさらに大変な時間が必要となったに違いない。
「マッキントッシュその赤裸々な真実」(Scott Kelby著、大谷和利訳)には逆説的なこんな言葉が載っている。
「Windowsマシンがイカして見えたらApple社に感謝しな!」と。
【参考資料】
・「未来を作った人々」Michael Hiltzik著、鴨澤眞夫訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「Apple Confidential」Owen W.Linzmayer著、林信行・柴田文彦訳(アスキー出版局刊)
・「マッキントッシュ伝説」斎藤由多加著(アスキー出版局刊)
・「パソコン革命の英雄たち」Paul Freiberger & Michael Swain著、大田一雄訳(マグロウヒル刊)
・「マッキントッシュその赤裸々な真実」Scott Kelby著、大谷和利訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「アラン・ケイ」鶴岡雄二訳・浜野保樹監修(アスキー出版局刊)
・「アップル デザイン」ポール・クンケル著、リック・イングリッシュ写真、大谷和利訳(アクシスパブリッシング刊)
・「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著/山崎賢治訳(日本評論社刊)
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私が初めて憧れのAltoに逢ったとき...
2006/02/24 23:10
1993年7月30日、大阪の富士ゼロックス社において展示会が開催された。そのMacコーナーの一つに依頼を受けて自社開発のビデオ編集ソフトを展示するブースを設けたが、そこにはあこがれのAltoが鎮座していた。
Altoは1970年代に米ゼロックス社のパロアルト研究所で開発された先進的なワークステーション。その先進性をAppleのLisaやMacintoshが受け継いだことで、後にすべてのパーソナルコンピュータの源流とされるシステムである。
そのマウスによるオペレーション、ビットマップ・ディスプレイ、リムーバブルなハードディスク、さらにEthernetまで実現されていた。そしてあのアラン・ケイはこのAlto上でSmalltalkを走らせていたのだ。
しかしAltoはXerox Starなど一部のワークステーションに間接的影響を与えたものの、ゼロックス社自身はAltoの市販を考えてはいなかったため現在まで完全な形で残っている台数はきわめて少ないといわれている。だからというわけではないが、私にとってAltoは一度その実物を、完全な姿を見てみたいと考えていた憧れのコンピュータだったのだ。
なんと、そんなAltoがゼロックス社の展示フロアに鎮座していたのだから、私は驚喜した。それだけでなく確か「AltoはMacintoshの母...」といったコピーと共に6色のアップルロゴがデザインされた展示ボードにAltoは眩しく飾られていた。
私は一日の仕事が終わり、お客様がほとんどいなくなった時を見計らってゼロックス社の担当者にカメラを渡し、Altoと共に記念撮影をお願いしたのがご紹介する写真である。ご覧のようにAltoとアップルロゴが一緒にディスプレイされる例はこの前にも後にもほとんどないと思う。
※1993年7月30日、大阪の富士ゼロックス社において展示会が開催された際にディスプレイされたAlto。Appleロゴと一緒のディスプレイは珍しい
さて、1970年代にこれだけのマシンが完成していたのだから、物作りとは何かをあらためて考えさせられる。確かに現在であればハードディスクも小型化・大容量のものが使えるとか、処理スピードをもっと速くすることが可能だろうが、問題はそうした枝葉の問題ではない。
アラン・ケイをはじめとする当時のパロアルト研究所の開発者たちが、1970年というその時代に、どのような発想...コンセプトの元でこのAltoの仕様に行き着いたのかに興味がある。そしてLisaやMacintoshにどのように受け継がれたのか...といったことを調べているがその一端は別途当サイトでご紹介したい。
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Altoは1970年代に米ゼロックス社のパロアルト研究所で開発された先進的なワークステーション。その先進性をAppleのLisaやMacintoshが受け継いだことで、後にすべてのパーソナルコンピュータの源流とされるシステムである。
そのマウスによるオペレーション、ビットマップ・ディスプレイ、リムーバブルなハードディスク、さらにEthernetまで実現されていた。そしてあのアラン・ケイはこのAlto上でSmalltalkを走らせていたのだ。
しかしAltoはXerox Starなど一部のワークステーションに間接的影響を与えたものの、ゼロックス社自身はAltoの市販を考えてはいなかったため現在まで完全な形で残っている台数はきわめて少ないといわれている。だからというわけではないが、私にとってAltoは一度その実物を、完全な姿を見てみたいと考えていた憧れのコンピュータだったのだ。
なんと、そんなAltoがゼロックス社の展示フロアに鎮座していたのだから、私は驚喜した。それだけでなく確か「AltoはMacintoshの母...」といったコピーと共に6色のアップルロゴがデザインされた展示ボードにAltoは眩しく飾られていた。
私は一日の仕事が終わり、お客様がほとんどいなくなった時を見計らってゼロックス社の担当者にカメラを渡し、Altoと共に記念撮影をお願いしたのがご紹介する写真である。ご覧のようにAltoとアップルロゴが一緒にディスプレイされる例はこの前にも後にもほとんどないと思う。
※1993年7月30日、大阪の富士ゼロックス社において展示会が開催された際にディスプレイされたAlto。Appleロゴと一緒のディスプレイは珍しい
さて、1970年代にこれだけのマシンが完成していたのだから、物作りとは何かをあらためて考えさせられる。確かに現在であればハードディスクも小型化・大容量のものが使えるとか、処理スピードをもっと速くすることが可能だろうが、問題はそうした枝葉の問題ではない。
アラン・ケイをはじめとする当時のパロアルト研究所の開発者たちが、1970年というその時代に、どのような発想...コンセプトの元でこのAltoの仕様に行き着いたのかに興味がある。そしてLisaやMacintoshにどのように受け継がれたのか...といったことを調べているがその一端は別途当サイトでご紹介したい。
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ピアノ演奏のように打鍵するにはパームレストは不要
2006/02/21 22:32
過日MacBook
Proの話題から話がキーボードへと移り、その入力スタイルまでに話題は広がった...。ただ「キーボードをピアノ演奏のように華麗に打鍵するにはパームレストは不要」との私の物言いが一部の人には気に入らなかったらしい(笑)。
皆さんはキーボード入力するとき、パームレストをお使いだろうか。Macに限らないが、最近はパームレストを使わないまでも両手の手首部分を机上に置いてキーを叩く人も多い。しかし...?!
PowerBookやiBookをお使いの方なら、キーボード手前の、すなわちパームレスト部分に手首を置いて入力することに違和感を持っている人は少ないと思う。しかし私はPowerBookやiBookでも入力中はパームレスト部分に手首はほとんど置かない。
現在のほとんどのユーザー諸氏は「手首を置いて入力する方が楽だし効率が良い」と思っているのではないだろうか。そして日常、デスクトップ機においてもパームレストを使っている方も多いと聞く。
しかし喧嘩を売るわけでは決してないが、よりキー入力の効率を上げたいと考えるならばパームレストの利用はそれに反するのだ。
ほとんどのパーソナルコンピュータのユーザーは、いわゆるパーソナルコンピュータが登場してから初めてキーボードというものを使い始めた人たちである。そしてこの方たちのほとんどがパームレストを使う傾向が多い。
しかし私自身を振り返ってみると時代的な違いといえば良いのだろうか、パーソナルコンピュータに至るまでの背景が違うために、その状況は些か変わってくる。
Macintosh以前のパーソナルコンピュータの名器としてAppleIIが知られているが、その他の多くのパソコン.....特にそのキーボード部分のデザインならびに形状を見て欲しい。そもそもパーソナルコンピュータのキーボード部分はそれまでにあったタイプライターのそれを模したものだ。
だから、机上面からキートップまでの高さを測ってみると、かなり距離があるのが分かる。実際に手元にあるApple IIeを実測してみると、スペース・バーまでの距離は約7センチほどもある。

これはなにもApple IIが特殊だったわけではなく、例えば同時代に登場したコモドール社製パソコンPET2001の写真も見ていただければ、Apple II同様パームレストを置く高さではないことが分かるだろう。

私は1977年に貿易商社に入社し、マイコンとかパソコンのフルキーボードを体験する以前にタイプライタを練習するはめになった。また海外との通信には今のように電子メールやFAXはなかったから、テレックスという一種のテレタイプを使って海外との情報交換をしていたが、それらは皆手首を置く場所は皆無だった。
繰り返すが、キー入力を効率よく行うためには手首を固定することは逆効果である。だから、タイプライターで訓練をした私たち時代のユーザーは、いまだに手首を固定しない。なぜなら前後はもとより、左右に万遍なく両手と指を自由に動かすためには手首は浮かせておかなければならないのだ。特に電動タイプライタが出現する前の手動タイプライタは指の力がかなり必要であり正確に打鍵するには手首を固定してはできなかった...。
この事はピアノ演奏を例にすればより分かりやすいだろう。打鍵する幅がまったく違うものの、ピアノを弾くのにパームレストはあってはならない(笑)。
したがって「キー入力のときパームレストが無いと手が疲れませんか?」という問いに、いつも「私はピアノを弾くようにキーボードを叩くから...疲れない」と答えることにしている(笑)。
事実、キーボードに対して理想的な腕の高さと姿勢を確保すれば、ピアノ演奏と同様に長時間のキーボード入力も疲れないものである。とはいえ正確にそして疲れず入力できるのならどのようなスタイルでも勝手だからして...「ピアノを弾くようにキーボードを叩く...」はちょっとキザだったかなあ(^_^
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皆さんはキーボード入力するとき、パームレストをお使いだろうか。Macに限らないが、最近はパームレストを使わないまでも両手の手首部分を机上に置いてキーを叩く人も多い。しかし...?!
PowerBookやiBookをお使いの方なら、キーボード手前の、すなわちパームレスト部分に手首を置いて入力することに違和感を持っている人は少ないと思う。しかし私はPowerBookやiBookでも入力中はパームレスト部分に手首はほとんど置かない。
現在のほとんどのユーザー諸氏は「手首を置いて入力する方が楽だし効率が良い」と思っているのではないだろうか。そして日常、デスクトップ機においてもパームレストを使っている方も多いと聞く。
しかし喧嘩を売るわけでは決してないが、よりキー入力の効率を上げたいと考えるならばパームレストの利用はそれに反するのだ。
ほとんどのパーソナルコンピュータのユーザーは、いわゆるパーソナルコンピュータが登場してから初めてキーボードというものを使い始めた人たちである。そしてこの方たちのほとんどがパームレストを使う傾向が多い。
しかし私自身を振り返ってみると時代的な違いといえば良いのだろうか、パーソナルコンピュータに至るまでの背景が違うために、その状況は些か変わってくる。
Macintosh以前のパーソナルコンピュータの名器としてAppleIIが知られているが、その他の多くのパソコン.....特にそのキーボード部分のデザインならびに形状を見て欲しい。そもそもパーソナルコンピュータのキーボード部分はそれまでにあったタイプライターのそれを模したものだ。
だから、机上面からキートップまでの高さを測ってみると、かなり距離があるのが分かる。実際に手元にあるApple IIeを実測してみると、スペース・バーまでの距離は約7センチほどもある。

これはなにもApple IIが特殊だったわけではなく、例えば同時代に登場したコモドール社製パソコンPET2001の写真も見ていただければ、Apple II同様パームレストを置く高さではないことが分かるだろう。

私は1977年に貿易商社に入社し、マイコンとかパソコンのフルキーボードを体験する以前にタイプライタを練習するはめになった。また海外との通信には今のように電子メールやFAXはなかったから、テレックスという一種のテレタイプを使って海外との情報交換をしていたが、それらは皆手首を置く場所は皆無だった。
繰り返すが、キー入力を効率よく行うためには手首を固定することは逆効果である。だから、タイプライターで訓練をした私たち時代のユーザーは、いまだに手首を固定しない。なぜなら前後はもとより、左右に万遍なく両手と指を自由に動かすためには手首は浮かせておかなければならないのだ。特に電動タイプライタが出現する前の手動タイプライタは指の力がかなり必要であり正確に打鍵するには手首を固定してはできなかった...。
この事はピアノ演奏を例にすればより分かりやすいだろう。打鍵する幅がまったく違うものの、ピアノを弾くのにパームレストはあってはならない(笑)。
したがって「キー入力のときパームレストが無いと手が疲れませんか?」という問いに、いつも「私はピアノを弾くようにキーボードを叩くから...疲れない」と答えることにしている(笑)。
事実、キーボードに対して理想的な腕の高さと姿勢を確保すれば、ピアノ演奏と同様に長時間のキーボード入力も疲れないものである。とはいえ正確にそして疲れず入力できるのならどのようなスタイルでも勝手だからして...「ピアノを弾くようにキーボードを叩く...」はちょっとキザだったかなあ(^_^
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ヘッドフォンの周波数特性比較と自身の聴覚確認
2006/02/09 21:58
AppleはiPodが難聴の原因になるという訴訟を起こされたというが、ともかくも外に音漏れするほど大きな音で聞くこと自体危険なことだ。さて良い音...緻密で正確な音源表現を楽しめるイヤーフォンやスピーカーを我々は常々求めているが、ここにアバウトではあるがひとつの指針になるであろう計測方法がある。
すでに難聴であるとか明らかな聴覚障害を持った人は別として、我々は日常生活で自分の聴覚にほとんど注意を向けていない。聞こえて当然と思っているし、身の回りの音は勿論、自分が聞きたい音はそのまま間違いなく聞こえていると思っている。しかし聞こえているつもりでも聞き分ける能力は明らかに加齢と共に劣ってくるという。
そうした意味でもヘッドフォーンなどの「良い音」を追求すると共に一度自分の聴覚を再認識してみることも必要ではないだろうか。
それにはまずマイクロソリューションのサイトに掲載されている「周波数テストトーン」を参考にしていはいかがだろうか。
ここには20Hzから20KHzまでのテストトーンをQuickTime MovieにしたものとAACデータとしてダウンロードできるものとが用意されている。
同社の趣旨は「あなたのヘッドフォンは聞こえる?♪」とあることからしてヘッドフォンを選択する際の性能比較判断のツールとして活用することを意図したものであろう。実は私もインイヤ型の新しい製品を物色しているので気になっている...。
ともかく今回は手近にある数種類のイヤーフォン、ヘッドフォンを使って「周波数テストトーン」を再生し、高低共にどの周波数まで可聴かをラフに調べてみた。なにしろ「周波数テストトーン」のQuickTime Movie版は周波数の移動位置がスライドバーで見ることができるのでこうしたテストには大変都合が良い。
さて手元にあった製品は以下の5機種だがマシンの出力側を同一音量にして低音域で無音から最初に可聴できた周波数位置と逆に高音域で可聴できなくなった瞬間をストップさせ、それらの位置関係を比較してみた。無論インナーイヤー式とノイズキャンセリング式のBOSE QuietComfort 2を直接比較するのも乱暴だし装着の仕方などで結果はかなり変化すると思うがそれぞれ数回試した上での結果である。
以下の図は皆同じようで単調だが(笑)、ムービーの周波数バーにある印の位置にご注目いただきたい。この位置が可聴のポイントとなる。
1)アップル標準インナーイヤーヘッドフォン
※アップル標準としてiPodに同梱されているインナーイヤーヘッドフォン。その可聴音域も良い意味で標準的だった
2)アップル iPodインイヤー式ヘッドフォン
※装着感も含めてお気に入りのiPodインナーイヤーヘッドフォン。しかしこのテストでは思いの外低音域が聞こえてこないことが分かった
3)Panasonic RP-HS102
※パナソニック製の耳掛け式のヘッドフォン。オープン式なのでいささか損をしているように思えるが、このテストでは可もなく不可もなしといったところか
4)Pioneer SE-M280
※パイオニア製密閉型ヘッドフォン。安物だが長時間モニターをするには適している製品。テスト結果はあまりよいとはいえなかった
5)BOSE QuietComfort 2
※BOSE製ノイズキャンセリングヘッドフォン。価格も今回の中では一番高い製品だがテストも低音域と高音域共に一番の結果が出た
以上5機種の結果比較をご覧になってどのような印象を持たれただろうか...。細かなことは退屈になるので端折るが私自身の印象としてはふたつある。
ひとつは構造上ある程度遮音性もあるし実際の使用感もよいので愛用していた2)の「アップル iPodインイヤー式ヘッドフォン」が思いの外、低域が出ていない(聞こえない)ことは意外だった。そしてあらためて比較することで5)BOSE QuietComfort 2の良さが分かったことだ。それは遮音性ならびにノイズキャンセリング機能によるものかも知れないが5機種の中では低音・高音共に一番広い周波数帯での可聴ができたことは確かであった。
とはいえご承知のようにこの低音域ならびに高音域の可聴音域の差が音楽を聴くという場合にそのまま性能として出るわけではないのがこの種の製品の難しいところだ。また何よりも音は好き嫌いもある...。そしてもうひとつ忘れてはならないのがイヤーフォン...ヘッドフォンの性能以前に私自身の聴覚がどれほど正常であるかも問題である(笑)。
我々の耳は20Hzから20,000Hzあたりまでの音を聞き分けることが出来ることから音楽用のCD再生音域スペックが決められていることは周知のとおりである。そして周波数特性としてこの20Hzから20,000Hzまでの音域を正確に出力できることがオーディオ機器の基本的な性能のひとつだといわれているわけだが実際に20,000Hzを聞き分けられる人は限られているというし加齢にしたがって高域が聞こえなくなるという事実もある。
個人差はあるものの聴力の場合は体の発達が完成する20歳を越すと徐々に悪化し一般的に50歳あたりを過ぎると急激な悪化をとげる場合もあるという。
したがって前記の特に高音域の限界はそれぞれの製品の限界以前に私自身の聴覚能力の限界でもあるということだと思う(^_^
。
このマイクロソリューションのサイトが提供している「周波数テストトーン」は勿論手持ちのイヤーフォン、ヘッドフォンの周波数特性を手軽に認識できるものとして重宝なものだが同時にご自身の聴覚がどの程度の周波数範囲を認識できるかをもラフにではあるが確認できるので手持ちの一番良いヘッドフォーンを使って一度お試しになってはいかがだろうか。
ただしこの類のテストトーンは生理的にも心地よい音ではないし、くれぐれも音量に注意していただくことを付け加えておきたい。
■株式会社マイクロソリューション
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すでに難聴であるとか明らかな聴覚障害を持った人は別として、我々は日常生活で自分の聴覚にほとんど注意を向けていない。聞こえて当然と思っているし、身の回りの音は勿論、自分が聞きたい音はそのまま間違いなく聞こえていると思っている。しかし聞こえているつもりでも聞き分ける能力は明らかに加齢と共に劣ってくるという。
そうした意味でもヘッドフォーンなどの「良い音」を追求すると共に一度自分の聴覚を再認識してみることも必要ではないだろうか。
それにはまずマイクロソリューションのサイトに掲載されている「周波数テストトーン」を参考にしていはいかがだろうか。
ここには20Hzから20KHzまでのテストトーンをQuickTime MovieにしたものとAACデータとしてダウンロードできるものとが用意されている。
同社の趣旨は「あなたのヘッドフォンは聞こえる?♪」とあることからしてヘッドフォンを選択する際の性能比較判断のツールとして活用することを意図したものであろう。実は私もインイヤ型の新しい製品を物色しているので気になっている...。
ともかく今回は手近にある数種類のイヤーフォン、ヘッドフォンを使って「周波数テストトーン」を再生し、高低共にどの周波数まで可聴かをラフに調べてみた。なにしろ「周波数テストトーン」のQuickTime Movie版は周波数の移動位置がスライドバーで見ることができるのでこうしたテストには大変都合が良い。
さて手元にあった製品は以下の5機種だがマシンの出力側を同一音量にして低音域で無音から最初に可聴できた周波数位置と逆に高音域で可聴できなくなった瞬間をストップさせ、それらの位置関係を比較してみた。無論インナーイヤー式とノイズキャンセリング式のBOSE QuietComfort 2を直接比較するのも乱暴だし装着の仕方などで結果はかなり変化すると思うがそれぞれ数回試した上での結果である。
以下の図は皆同じようで単調だが(笑)、ムービーの周波数バーにある印の位置にご注目いただきたい。この位置が可聴のポイントとなる。
1)アップル標準インナーイヤーヘッドフォン
※アップル標準としてiPodに同梱されているインナーイヤーヘッドフォン。その可聴音域も良い意味で標準的だった
2)アップル iPodインイヤー式ヘッドフォン
※装着感も含めてお気に入りのiPodインナーイヤーヘッドフォン。しかしこのテストでは思いの外低音域が聞こえてこないことが分かった
3)Panasonic RP-HS102
※パナソニック製の耳掛け式のヘッドフォン。オープン式なのでいささか損をしているように思えるが、このテストでは可もなく不可もなしといったところか
4)Pioneer SE-M280
※パイオニア製密閉型ヘッドフォン。安物だが長時間モニターをするには適している製品。テスト結果はあまりよいとはいえなかった
5)BOSE QuietComfort 2
※BOSE製ノイズキャンセリングヘッドフォン。価格も今回の中では一番高い製品だがテストも低音域と高音域共に一番の結果が出た
以上5機種の結果比較をご覧になってどのような印象を持たれただろうか...。細かなことは退屈になるので端折るが私自身の印象としてはふたつある。
ひとつは構造上ある程度遮音性もあるし実際の使用感もよいので愛用していた2)の「アップル iPodインイヤー式ヘッドフォン」が思いの外、低域が出ていない(聞こえない)ことは意外だった。そしてあらためて比較することで5)BOSE QuietComfort 2の良さが分かったことだ。それは遮音性ならびにノイズキャンセリング機能によるものかも知れないが5機種の中では低音・高音共に一番広い周波数帯での可聴ができたことは確かであった。
とはいえご承知のようにこの低音域ならびに高音域の可聴音域の差が音楽を聴くという場合にそのまま性能として出るわけではないのがこの種の製品の難しいところだ。また何よりも音は好き嫌いもある...。そしてもうひとつ忘れてはならないのがイヤーフォン...ヘッドフォンの性能以前に私自身の聴覚がどれほど正常であるかも問題である(笑)。
我々の耳は20Hzから20,000Hzあたりまでの音を聞き分けることが出来ることから音楽用のCD再生音域スペックが決められていることは周知のとおりである。そして周波数特性としてこの20Hzから20,000Hzまでの音域を正確に出力できることがオーディオ機器の基本的な性能のひとつだといわれているわけだが実際に20,000Hzを聞き分けられる人は限られているというし加齢にしたがって高域が聞こえなくなるという事実もある。
個人差はあるものの聴力の場合は体の発達が完成する20歳を越すと徐々に悪化し一般的に50歳あたりを過ぎると急激な悪化をとげる場合もあるという。
したがって前記の特に高音域の限界はそれぞれの製品の限界以前に私自身の聴覚能力の限界でもあるということだと思う(^_^
このマイクロソリューションのサイトが提供している「周波数テストトーン」は勿論手持ちのイヤーフォン、ヘッドフォンの周波数特性を手軽に認識できるものとして重宝なものだが同時にご自身の聴覚がどの程度の周波数範囲を認識できるかをもラフにではあるが確認できるので手持ちの一番良いヘッドフォーンを使って一度お試しになってはいかがだろうか。
ただしこの類のテストトーンは生理的にも心地よい音ではないし、くれぐれも音量に注意していただくことを付け加えておきたい。
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ジョブズとゲイツの不思議な友好関係
2006/02/03 17:14
最近ワイアード・ニュースのコラム『ジョブズとゲイツ、真の「善玉」はどっち?』に多くの反応があったようだがその是非はともかく、これまでAppleとMicrosoft...あるいはジョブズとゲイツはどちらかが善で一方が悪といった表裏の関係で語られてきた。しかし歴史を振り返ると両者は最初期から意外に親密な関係にあることがわかる。
これまで当サイトでも一部紹介してきた内容と重複するがジョブズとゲイツとの親交の歴史を眺めてみよう...。
Macintoshが登場した翌年の1985年に早くもアスキーから「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」と題する翻訳本が出版された。その巻頭ページによれば本書はMicrosoft社のビル・ゲイツとApple Computer社のスティーブ・ジョブズの会話から生まれたと記されている。
1984年に登場したMacintoshは当然の事ながらその開発は秘密裏に行われていた。しかしアプリケーションプログラムが不可欠なこともありMicrosoft社など数社には厳重な機密保持契約の取り交わしの元でその技術的な仕様などを公開していたが「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」はビル・ゲイツ自身が同社の出版部門からMacintoshの解説書を出版したらどうかという提案をしたことから始まったという。したがってMacintoshの本格的な解説書の出版はゲイツとジョブズ同意の上でのことだった...。
※1985年にアスキーから発刊された「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」。和訳で読める本格的な解説書としては最初期のものだ
そうした経緯もあって...そしてゲイツ自身もMacintoshを評価し気に入っていたようだが1984年10月に作成されたMacintosh最初期カタログにも当時の若かりしビル・ゲイツが大きく載っている。この事だけでもAppleとMicrosoftは悪い仲ではなかったことが一目瞭然である。
※Macintoshのリリースと同時に配布された最初期の製品カタログ(写真上はその表紙)にはLotus Development社のMitch Kapor氏、Software Publishing社のFred Gibsons氏と共にMicrosoft社のBill Gates氏(写真下の左側)もその姿が掲載されている
また先日来大きなニュースとなったディズニーのPixar社買収だが、ご承知の通りスティーブ・ジョブズは1986年に1,000万ドルでPixar社の筆頭株主になり会長の座についた。しかし以降Pixar社は金食い虫でありジョブズはNeXT社よりはるかに多くの資金を投じていたという。
実はその際にもMicrosoft社あるいはビル・ゲイツの名が見え隠れする...。
なぜならジョブズは儲からないPixar社をMicrosoft社に売却できないかと一時は考えていたらしいがMicrosoft社は買収は断念したもののその代わりとして特許ライセンス費用として多額の金を払ったことでPixar社ははじめて四半期決算に利益計上することができた。無論この話はPixar社の3Dアニメーション「トイ・ストーリー」が封切られ大成功する1995年11月以前のことである。
この際Microsoftの「特許ライセンス費用支払」という事実は私にとって大変象徴的な出来事に思える。
何故なら1997年8月6日、Appleに暫定CEOとして戻ってきたスティーブ・ジョブズはボストンで開催されたMACWORLD Expoにおいて衝撃的な発表をする。そのひとつが取締役会の大規模なリストラだった。そしてそれ以上にショックだったのがMicrosoft社との特許クロスライセンスおよび技術開発契約を結んだという発表だった。
このときMicrosoft社がApple社に支払った額は公表されていないので分からないがこの事実でApple社の財政が一息ついたことは事実のようだ。
この出来事は前記したPixar社のときと同一パターンであるように思えるのだ。
Appleはギル・アメリオCEO時代にもMicrosoft社すなわちビル・ゲイツに両社に存在していたトラブルの和解を求めていたがうまくいかなったことを考えると1997年の特許クロスライセンスおよび技術開発契約に至る締結はやはりゲイツとジョブズの個人的な信頼関係あるいは秘密裏の利害一致によるものだとしか考えられない。
一言でいえばユーザーや業界はジョブズとゲイツをあらゆる面で比較し、善玉と悪玉に据えて面白おかしくストーリーを展開させることに時間を割いてきたが実際の2人は一般に考えられている以上に親密なのではないだろうか。
先のBoston Expoの際、スクリーンにビル・ゲイツの顔が大写しになったとき、聴衆の多くからはブーイングが飛んだ。しかしジョブズはそれをたしなめ「Appleが成功するためにはMicrosoftが負けなければならないという考えは捨て、Appleは前進すべきだ」とスピーチしたことはまだ記憶に新しい。
2人には...求める方向は別だとしても同じ時代に行き会わせたという共通意識が強く結びあっているのかも知れない。
今回AppleはIntelプロセッサを採用することになったが、その対応をめぐってもAdobe社など反応が冷たい企業とは対象的にMicrosoftは即サポートを明言し協調関係をアピールしている点は興味深い。
ともかくこうしてジョブズとゲイツのこれまでの関係を考えていくなら冒頭に記したワイアード・ニュースのコラムは時代認識性を欠いた旧態依然の視点から一歩も出ていない中身のない記事であることは明白であろう。
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これまで当サイトでも一部紹介してきた内容と重複するがジョブズとゲイツとの親交の歴史を眺めてみよう...。
Macintoshが登場した翌年の1985年に早くもアスキーから「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」と題する翻訳本が出版された。その巻頭ページによれば本書はMicrosoft社のビル・ゲイツとApple Computer社のスティーブ・ジョブズの会話から生まれたと記されている。
1984年に登場したMacintoshは当然の事ながらその開発は秘密裏に行われていた。しかしアプリケーションプログラムが不可欠なこともありMicrosoft社など数社には厳重な機密保持契約の取り交わしの元でその技術的な仕様などを公開していたが「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」はビル・ゲイツ自身が同社の出版部門からMacintoshの解説書を出版したらどうかという提案をしたことから始まったという。したがってMacintoshの本格的な解説書の出版はゲイツとジョブズ同意の上でのことだった...。
※1985年にアスキーから発刊された「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」。和訳で読める本格的な解説書としては最初期のものだ
そうした経緯もあって...そしてゲイツ自身もMacintoshを評価し気に入っていたようだが1984年10月に作成されたMacintosh最初期カタログにも当時の若かりしビル・ゲイツが大きく載っている。この事だけでもAppleとMicrosoftは悪い仲ではなかったことが一目瞭然である。
※Macintoshのリリースと同時に配布された最初期の製品カタログ(写真上はその表紙)にはLotus Development社のMitch Kapor氏、Software Publishing社のFred Gibsons氏と共にMicrosoft社のBill Gates氏(写真下の左側)もその姿が掲載されている
また先日来大きなニュースとなったディズニーのPixar社買収だが、ご承知の通りスティーブ・ジョブズは1986年に1,000万ドルでPixar社の筆頭株主になり会長の座についた。しかし以降Pixar社は金食い虫でありジョブズはNeXT社よりはるかに多くの資金を投じていたという。
実はその際にもMicrosoft社あるいはビル・ゲイツの名が見え隠れする...。
なぜならジョブズは儲からないPixar社をMicrosoft社に売却できないかと一時は考えていたらしいがMicrosoft社は買収は断念したもののその代わりとして特許ライセンス費用として多額の金を払ったことでPixar社ははじめて四半期決算に利益計上することができた。無論この話はPixar社の3Dアニメーション「トイ・ストーリー」が封切られ大成功する1995年11月以前のことである。
この際Microsoftの「特許ライセンス費用支払」という事実は私にとって大変象徴的な出来事に思える。
何故なら1997年8月6日、Appleに暫定CEOとして戻ってきたスティーブ・ジョブズはボストンで開催されたMACWORLD Expoにおいて衝撃的な発表をする。そのひとつが取締役会の大規模なリストラだった。そしてそれ以上にショックだったのがMicrosoft社との特許クロスライセンスおよび技術開発契約を結んだという発表だった。
このときMicrosoft社がApple社に支払った額は公表されていないので分からないがこの事実でApple社の財政が一息ついたことは事実のようだ。
この出来事は前記したPixar社のときと同一パターンであるように思えるのだ。
Appleはギル・アメリオCEO時代にもMicrosoft社すなわちビル・ゲイツに両社に存在していたトラブルの和解を求めていたがうまくいかなったことを考えると1997年の特許クロスライセンスおよび技術開発契約に至る締結はやはりゲイツとジョブズの個人的な信頼関係あるいは秘密裏の利害一致によるものだとしか考えられない。
一言でいえばユーザーや業界はジョブズとゲイツをあらゆる面で比較し、善玉と悪玉に据えて面白おかしくストーリーを展開させることに時間を割いてきたが実際の2人は一般に考えられている以上に親密なのではないだろうか。
先のBoston Expoの際、スクリーンにビル・ゲイツの顔が大写しになったとき、聴衆の多くからはブーイングが飛んだ。しかしジョブズはそれをたしなめ「Appleが成功するためにはMicrosoftが負けなければならないという考えは捨て、Appleは前進すべきだ」とスピーチしたことはまだ記憶に新しい。
2人には...求める方向は別だとしても同じ時代に行き会わせたという共通意識が強く結びあっているのかも知れない。
今回AppleはIntelプロセッサを採用することになったが、その対応をめぐってもAdobe社など反応が冷たい企業とは対象的にMicrosoftは即サポートを明言し協調関係をアピールしている点は興味深い。
ともかくこうしてジョブズとゲイツのこれまでの関係を考えていくなら冒頭に記したワイアード・ニュースのコラムは時代認識性を欠いた旧態依然の視点から一歩も出ていない中身のない記事であることは明白であろう。
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